館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(38)

奥栄一との交友(二)
後年、春夫は「悪女礼讃」という文章(昭和33年5月「婦人画報」・全集未収録・「熊野誌」60号で紹介)で、まず悪女の定義の難しさを手始めに、「悪女とは強烈な個性に生きる婦人」とし、「本当に生きる彼女らは理想の遂行のためには時に世俗的な悪をも顧慮せず、悪女とかたずけられるのをも意に介しないであらう。然らば悪女とはまた一種の女傑の謂でもある。」と言い、「僕はわが五十年来の親友をここでは彼と呼び、その細君を彼女とよそよそしく呼んで話を進めたい。」と言います。

「彼と僕」とは少年時代からの友人で、幼い詩歌を作り、自然主義時代の作家の品評をし合った仲、一緒に落第もしました。「その頃の彼はやや小柄でおとなしく可憐な美少年で勤勉な読書家であつたが社会改革の熱情に燃えて、大杉栄などの仲間とも親しくしていた。さうして多分その間にであつたらうと思われるが、才情と容色とを兼ね備えた彼女と相識り、やがて相思の間柄は結婚にまで進んだ。」と記しています。彼には出生にまつわるコンプレックスがあり、母の不幸を慮(おもんばか)って、「社会改革のうちでも特に婦人問題に対して深い関心を抱いて婦人の自覚と社会的地位の向上や家庭からの解放などに関して内外の名著を多く読みあさつて研究し思索するところも浅くなかつた。」と述べています。彼は自ら学び得たところを彼女に教え、彼女は彼の教えを体得、彼女の名前で世に発表し、広く受け入れられてゆくのをむしろ喜んだと言います。彼女は「立派に新時代の婦人」になっていきます。「彼女は彼によつて一個の婦人評論家としての名声とその実質とを持つに到つた。彼の注入した智識と精神とは完全にその女弟子たる妻の彼女のなかでゆたかに実つたのである。 / 彼は青春を賭して彼女を教育し、彼女に二児を生ませた外には彼自身、何の為すところもなく一個の有名で有為な婦人評論家の無能な夫となつて十数年の歳月は過ぎて行つた。」とも述べています。

この「彼女」こそは、消費者運動や協同組合運動など婦人活動家として目まぐるしく活躍、戦後は「台所から政治へ」をモットーに、「おしゃもじ」に象徴される主婦連合会を立ち上げた「奥むめお」です。

 

1998年9月・ドメス出版刊

「野火あかあかと―奥むめお自伝」(1988年9月)には、「売れない詩人」である夫との新婚生活の模様が描かれています。奥栄一は上京後、本郷村と呼ばれた売れない文学青年たちの溜まり場に住みました。辻潤や生田春月らとも親しく交わりました。辻潤は、ふたりの新婚時代にも虚無僧(こむそう)姿で現れたりしていたようです。春月とは、後述するように春夫とも親しく、春月の妻花世とはむめおも親友であったと言います。春月は「いかにも線が細く」やがて入水自殺を遂げます。

2人の新婚生活の場所は「四谷愛住町のお寺の離れ」で、「八、六畳の二間。よくみがかれた回り縁と広い庭がうれしかった。新聞社が祝福の写真をとりにきた。来客も多く、その世話に追われた。夜になると、ふたりで連れだって夜店に通い、おでん屋や焼鳥屋で有り金をはたいて遊んだ。 / よく洗濯をする働き者の妻は、さして貧しさを感じることもなく、もう世に出る心も捨てて、原稿生活に力を入れれば勉強もできるのを楽しみに、良人の翻訳物の清書などしていた。あの頃はそのようにしても、ささやかな原稿収入で飯の食える黄金時代であった。」と、記しています。

むめおは出産後床の中で、仰向けに寝たまま原稿を書いて出産費用を作ったほどだった言いますが、自分は怠けているから貧乏なのじゃない、社会のために働いているから貧乏なのだと、意気軒昂な貧乏生活を送っています。「いつでもどんな時でも、働く婦人は朗らかに笑い、楽しみ、そして堂々と怒り、悲しみたい」という言葉を残しています。
むめお自伝によると、関東大震災で罹災した家族は新宮に避難、新宮で長女を出産、地名にちなんで「紀伊」と命名、後に、母親の片腕として活躍、主婦連会長などを務める中村紀伊です。

むめおが新宮時代の忘れられない思い出として上げているのは、高群逸枝(たかむらいつえ)の身元引受事件です。新宮警察署からひとりの婦人を保護しているから引き取りに来てほしいとの連絡、駈けつけてみると知人の高群逸枝、夫の橋本憲三との生活に疲れて家出をし、新宮まで落ちのびてきたのでした。自殺を心配して憲三から捜索願が出されていたようです。逸枝が憲三の献身的な協力を得て、わが国の女性史学の礎を築いてゆくのは、それから後のことになります。

奥栄一も憲三と似た立場で、春夫が記すように、妻が有名になり世間に認められてゆく状況を、寛容に傍らで見守り続けるのです。
栄一は「働く妻を持つ夫の手記」(昭和4年8月「婦人公論」)を書いています。3人称的な記述で「若いフエミニストとしての彼は、妻を飼う事を、その代償として、妻に侍かせる事を、共通のプライドにしている凡ゆる男性の心に反発を感じてゐた。」と述べ、いわゆる良妻賢母型の妻を望まないで、妻の運動にも理解を示しています。しかしながら、むめおが運動家としての実践を積み上げて行けば行くほど、栄一から離れていったのです。この文が書かれてからしばらくして2人は離婚しています。むめおは築き上げた奥の姓を手放しませんでした。

むめおは戦後、数少ない女性参議院議員となり、3期18年の長きにわたり務め上げました。春夫がむめおを「悪女」として規定した頃、全国の消費者団体が結束し、第1回全国消費者大会が開かれ消費者宣言が発表されています(1957年2月)。この年7月には、ブラジルのリオデジャネイロ市での列国議会同盟会に議員代表として出席、南米、アメリカ、ヨーロッパ諸国、エジプトなどを2ケ月に亘って視察、むめお60余歳の華やかな活躍の時期でもありました。

一方、栄一はその後、静岡、埼玉などで農場開墾に従事、戦後は地味に生き、ほとんど表舞台に出ることはありませんでした。再婚の妻浜子との詩歌集の共著「蓼(たで)の花」(昭和47年私家版)が稀覯本(きこうぼん)として残されています。序文を記すと約束して居た春夫は、すでに世を去っていました。

辻本雄一

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です