館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(37)

奥栄一との交友(一)
春夫に「落第祝福」という一文があります(「婦人公論」昭和2年3月号)。
「恐怖といふものはそれを予想する時に一層大きい。つまり不安である。私は全くその予想的恐怖―不安なしに落第してしまつた。(中略)その時一緒に落第したのが奥栄一君で、この人はもう以前から十分落第する自信をもつてゐたらしく、発表以前には毎日僕の所へ遊びに来て、文学談の末には屹度成績表の噂をして嘆息を漏らしてゐるのを僕は慰めたものだが、斯うなつてみると自信がなかつた丈に僕の方が一層面目ない次第で、それ以来二人は甚だ親友になり、毎日のやうに春先きの麗かな野原や海岸なぞをうろつき廻つて家へは寄りつかなかつたものだが、或る時なぞは見晴らしのいヽので人々がよく遊びに行く或る山へ上つて、そこの茶店で売つてゐる豆腐の田楽を二人で十二人前分ぐらゐ喰つた。尤も一人前といふのはほんの少しなので、大ていの人は三人前ぐらゐ喰ふが、十二人前は少々多過ぎたやうに思ふ。」

落第仲間、却って交友の密度を増したかに思われる奥栄一との思い出深い、日和山の茶店付近での語らい。 
奥栄一本人の思い出も聞いてみましょう。「少年佐藤春夫の追憶」と題する文です(講談社版「佐藤春夫全集」月報7号・昭和42年)。

「春夫はその頃の学制で高等小学校の二年から、一つ年上の私は三年から新しくできた町の中学校に学ぶことになつた。わたしたちが親しく口をきくようになつたのは、中学に入つてからである。/ 小さな町のことであるから、おたがいに、顔は見知つていたが、一方は、町でただ一つの病院の息子であり、私はうどん屋の倅であるから親しく口を利いた記憶がない。中学へ入つて、毎日顔を合わせているうちに、三年になつた頃には、もう大人のよむ文学書や雑誌をむさぼるように読むようになつた。そうして三年から四年に進級するとき同時に落第したのである。(中略) / わたしたちは手の舞い足の踏みようも知らないほど驚いて、発表のあつたあくる朝、町はずれの小山に登り、善後策を相談することになつた。 / 一望千里、春光をあびた太平洋を見渡しながらわたしたちは、何を話しあつたか、今は覚えていない。覚えているのは、午後になつて、佐藤がおなかがすかないかといつたことである。私は朝から何も食べないので、やつぱり少々空腹のようである。 / 「よし」佐藤はそういうと、茶店の方へかけていつて、豆腐の田楽を仕入れて来た。この茶店は春さきになると、豆腐の田楽を売物にしていた。 / 「今朝出かけるときに、薬局でちょつとくすねて来た」 / 佐藤はそういつてあははと笑つた。 /  私はおどろいたのである。この男はこんな時にもそんなことをする余裕をもつている。」

ここでは、「わんぱく時代」の描写とは違って、翌日のこととなっていますが、日和山で田楽を頬張った話は共通します。

また、奥には、新進作家として注目され始めた春夫について、「新潮」が大正8年6月号で「人の印象」特集(29)で、「佐藤春夫氏の印象」を取り上げた際に、「思ひだすがまヽに」を書いて、「佐藤君は私の子供の時からの友人である。今更あらたまつて佐藤氏の印象を語れと云はれると、二十年近くも親しくしてゐる彼の千差万別の印象が頭の中で騒然とせざるを得ない。 / が、何はともあれ彼は現文壇の所謂新進作家の中では、正に鶏群の一鶴である。と云ふ事が、彼を褒め過ぎるやうに聞えると云ふなれば、所謂新進作家と云ふ先生方に、案外つまらない方が少なくないやうには思はれると云ふ逆定理を記して、聊(いささ)か岡目八目、自惚(うぬぼれ)の定石を打つて置かう。」と記しています。奥もこのとき、批評家の地位を占め始めていたのです。他の執筆者は、谷崎潤一郎の「佐藤春夫君と私と」、生田春月の「驚くべき早熟の男」、芥川龍之介の「何よりも先に詩人」、与謝野晶子の「一人の親友として」、生田長江の「即興詩人として」という、豪華な執筆陣です。

晩年のふたり(春夫邸にて・(右)奥栄一)

奥栄一の簡単な履歴を記すと、新宮町の生まれ、春夫よりはちょうど1年余前の明治24年3月27日に生誕、春夫と同じ頃上京して早稲田大学英文科に入学しますが、中退して一時帰省、大正7年東雲堂書店店主西村陽吉や新宮出身の大石七分(しちぶん・西村伊作の弟、関口町の春夫邸の設計者)、永田衡吉(こうきち・劇作家、民俗研究家として活躍)らと「民衆の芸術」創刊に関与(編集兼発行人は大石七分、編輯所は民衆の芸術社、発行所は庶民社)、西村伊作や大杉栄、伊藤野枝(のえ)らの投稿も得て、自らも詩や評論、小説「大海のほとり」などを書いています。またこの頃上京して、堺利彦の「売文社」にも勤めています。「民衆の芸術」(7年9月・第3号)の「遠近消息」欄には、「僕のとこは警察署の前で、米騒動の連中が、がやがや喧しいので原稿がかけなかつた。月末に上京します。」とある。この新宮警察署こそは、高木顕明の寺浄泉寺の前でもあって、高木や大石誠之助が拘引された場所でもある。奥は同誌のこの号に、「紀州は海と山の国 / 山にMuhonの木が実り / 海に情の恋が住む  // 海は紫、山緑 / 今年は誰が死ぬのやら // 鉄の鎖と黒髪に / 紀州名代の雨が降る。」という「紀伊の国」と題する詩を投稿しています。「Muhon」は「謀反」です。テオフイユ・ゴーチエの「金羊毛」を翻訳、出版(大正9年新潮社)、「死刑囚最後の日」「モスコエ海峡の大渦巻」などの訳書もあります。

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