新宮の歴史雑学①~丹鶴城

JR新宮駅から駅前本通りを速玉大社の方に歩いていくと、右側の高台に立派な石垣がつながっているのが見えてきます。江戸時代、この場所に立派なお城がありました。

慶長5年(1600)、浅野幸長が紀伊37万6000石の領主に、幸長の家老・浅野忠吉が新宮2万8000石の領主と牟婁9万石の代官に任命されました。幸長は、翌年、新宮に赴任し、すぐに築城にとりかかりました。ところが元和元年(1615)、幕府の一国一城令により城は一度取り壊されます。

そして、元和4年(1618)、幕府の命令により再び築城することになり、丹鶴山にあった宗応寺と東仙寺を現在の場所に移転しました。その後、忠吉は広島県三原に移封されますが、城の建設は受け継がれ、10年後の寛永5年(1628)にお濠ができ、寛永10年(1633)に完成しました。

当時の丹鶴城は地方の城としてはとても立派なもので、東の最も高い場所に「本丸」、西方に「鐘ノ丸」と「松ノ丸」が築かれていました。本丸の北には「出丸」があり、熊野川を行き来する船を見渡すことができました。熊野川沿いには、「水の手」と呼ばれる船着場とたくさんの炭が収納できる大規模な炭納屋が設けられ、熊野川流域から集められた備長炭を江戸を中心に出荷していました。この炭納屋群の発掘は、これまで軍備優先に考えられてきた城のあり方に対し、経済面から考えるイメージを提供するものとして注目を集めました。

また、城に使われた石は主に対岸の鮒田(現紀宝町)あたりから熊野川の河原に運び、そこから山上まで引き上げられました。石垣の積み方には念を入れたのか、責任者の印が刻まれたものが今も残っています。

この丹鶴城跡は、現在、丹鶴城公園として多くの市民の憩の場となっています。天気の良い日には新宮の街並や熊野川、対岸の成川などが見渡せるので、新宮観光には欠かせないおすすめスポットになっています。

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