丹鶴城跡

熊野速玉大社の東方にある丹鶴山には、もともと、熊野別当家の嫡流である新宮別当家の別邸や、平安時代末期の大治5年(1130年)に源為義の女「たつたはらの女房(別名熊野鳥居禅尼)」が夫の熊野別当行範の死後、その冥福を祈るために創建した東仙寺や、熊野速玉大社の神宮寺であった崗輪寺などがあった。

慶長5年(1600年)、浅野幸長が甲斐国から紀伊国に入り、翌年、幸長の2男忠吉が新宮に入り、まず当地にあった東仙寺を他所に移し、縄張りを始め、元和5年(1619年)に丹鶴城(新宮城・沖見城)を築いた。

天守丸は大天守(9間四方)や小天守が付設された複合式であった。しかし、丹鶴城の築城工事そのものは、新城主となった紀州藩付家老水野重央(水野家初代)に引き継がれ、寛文7年(1667年)、3代城主水野重上の時代にようやく3万5000石の本城として完成された。完成時には、本丸の西に鐘の丸が、そしてその北に松ノ丸が別につくられていた。大天守閣は3層もしくは5層であったようである。

丹鶴山の西麓と東麓にある俗称ボッツリ山で、灰釉の古瀬戸壺2口および古瀬戸瓶子1口が発見されている。

なお、丹鶴城は、明治4年(1871年)の廃藩置県により廃城となり、大正11年(1922年)には外堀も埋め立てられた。そのため、現在の城跡には、本丸と鐘ノ丸の石塁と発掘調査で確認された松ノ丸の石塁および土壁などが残存しているだけであるが、近年の発掘調査により、熊野川に面して設けられた水手門付近から炭納屋群13棟の存在が明らかになった。

 

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