その時、熊野は動いた④~新宮十郎行家 1

新宮十郎行家 (1)

多弁で、こらえ性がなく、つい腹のうちを人にみせてしまうばかりか、思い立つと軽々と行動する軽率さが取り柄の男・・・。いかにも典型的な熊野人の一タイプだな、と微苦笑させられる人物として司馬遼太郎さんの「義経」に登場するのが、新宮十郎行家だ。

行家は源氏の棟梁・源義朝の末弟で、しかも熊野別当ゆかりの人物でもあるが、この小説の中では那智の滝で荒行をして修験の法をこころえ、経文も読めるだけの宗教的素養をそなえ、「武将としては百戦百敗してきたが、しかし策士としては百策ことごとく的中した」口達者なアジテーターとして描かれている。

■歴史上、最初に活躍した熊野人■

熊野地方は古来から神武東征を導いた高倉下命(たかくらじのみこと)、あるいは修験道のカリスマである役小角(えんのおづぬ)のような正体のさだかではないユニークな人物を出してきたが、それはそれとして、日本史上、天下の情勢を一変させるほど縦横に活躍した最初の熊野人といえば、この行家をおいてない。

もしも新宮出身の行家に、木曾義仲や源義経がもっていた軍事力と采配のたくみさをうまく活用するだけの雅量があれば、あるいは鎌倉幕府をひらいた源頼朝をしのぐ政治家となっていたかもしれず、それこそ新宮幕府をひらいていたかもしれない。行家には全国に散らばった熊野先達の情報ネットワークを使ってのすぐれた情報収集能力と、コーディネーターとしての才能があり、それは源平抗争期の時代では群を抜くものがあった。

■後ろ盾がない、行家■

ただ、行家には姉の丹鶴姫に従う熊野水軍の一部はついていても頼朝に従った坂東武者のような強力な手勢はなく、また義経をバックアップした奥州の藤原秀衡のような財力、あるいは弁慶のような忠実な部下には恵まれなかった。いわば、徒手空拳で権謀術数のかたまりのような公卿と荒っぽい東国武士たちの間を渡り歩かなければならなかったのだ。

司馬さんの「義経」には、その行家の焦りをあらわすエピソードがつづられている。
京を制圧した義仲とともに蓮華王院にいた後白河法皇に謁したときのことだ。馬を降りた行家は、一歩でも義仲に先んじようと身をもむようにして門内を進んだ。宮廷の庭ではゆるゆると歩かなければいけない決まりがあるのに、それを無視して義仲よりも序列が上なのを示そうとして焦って足を速める行家の姿に、見守る公卿たちは笑いをかみ殺した。

御簾のなかからこれを見ていた法皇は、
「あの猿どものあさましさをみよ」
と、この分なら義仲より才子面の行家のほうが御しやすいとみた、というくだりだ。
同族をせめぎあわせてその力を減衰させることにたけ、その権謀術数のあくどさで「日本国第一の大天狗」と頼朝に評された後白河法皇のほうが、行家より一枚も二枚も役者が上だったということだろう。

源氏の棟梁・源為義の十男として生まれた十郎行家は、最初は源氏の御曹司らしく「義」の一字をいただいて「義盛」と名乗っていた。父の為義は後三年の役(1083~87)で陸奥の豪族清原氏を破った八幡太郎義家の孫だ。為義と熱田大宮司藤原季範の娘の間に生まれた長男が義朝である。義朝の子の頼朝・義経兄弟は行家には甥にあたる。

生母は姉の丹鶴姫と同じく第15代熊野別当長快の娘で「熊野の女房」とか「立田の女房」と呼ばれていた女性。
(佐藤和夫さんの「海と水軍の歴史(上)」では、母は「新宮田津原の神官鈴木重忠の女」となっている。

八咫烏

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