西宮久助の漂流

弘治元年(1555年)のある日、九十九里浜の沖は昨夜までの嵐でまだうねりが高かった。折からの暴風雨で流されたと思われる一隻の難破船が剃金浦に漂着した。そして、たった一人生き残っていた男によると、彼は西宮久助といい、漁に出て嵐に遭い、たった一人助かってこの浦に流れ着いたとのことだった。

東国への漁業伝来

村人に助けられた若い男は、地元の長嶋丹後の家に引き取られて体力の回復を待った。歩けるまでに回復した久助はよく海岸を歩き回った。九十九里の海はここだけでなく、鳥山があちらこちらに立って、鰯が遠浅の岸近くまで寄るのが見えた。鳥山と言うのは海面近くにイワシの群れがいると、それを狙ってカモメの群れがその上を乱舞する様子を言う漁師の言葉である。

こんなにたくさんのイワシが目の前にいるのに、土地の人は誰もイワシを捕ろうとはしなかった。それは地引網がないのと、鰯の大量利用の仕方がわからないせいだと気がついた。

すっかり元気になった久助は、村人に助けてもらったお礼に、関西のイワシ漁の様子を熱心に話した。はじめのうちはなかなか解ってもらえなかったが、やっとのことで村人の理解と協力を得た彼は、故郷の熊野の海で使っているような地引網を作って、鰯漁を土地の人々に教え、村人の恩に報いたということである。

この話は、「房総水産図誌」という本の中の、「紀州人の関東渡来の起源」という項に数行記録されているだけである。1555年は、武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の合戦(1553~1563)が始まってまもなくのことで、戦国時代の真っ只中であった。

西宮九助の話を知っている人は極めて少ないと思う。しかし、関東の漁業の歴史がこの時に始まったといえるのではないだろうか。この話は一地方の旧家に残っていた伝承文書であり、確かな証拠のある話ではありません。また、この事件自体は偶然のもたらしたことではあったが、東国への漁業伝来の前奏曲として、このような出来事があったととしてもおかしくないと思われる。

16世紀後半、日本の中心であった関西地方での綿や藍、みかんや菜種などのお金になる作物栽培が急増し、それに伴い、それらの肥料としての干鰯(ホシカ)の需要が急増した。その需要を賄うための鰯の乱獲という事態が起こり、西日本の鰯漁場が荒廃したので、供給先がいずれ東国に向かうことは必至のことだったに違いない。

九十九里鰯漁発祥の記念碑

剃金の白子自然公園の入口付近に「九十九里地引網発祥の地記念碑」がある。

『房総水産図誌』には、

<今から四百数十年前、紀州(和歌山県)の漁師西宮久助なる者、遭難にあい、わが剃金浦に漂着、地元の長嶋丹後の手厚い加護を受けた。感激した久助は、故郷に帰るに当たり、謝意のしるしとして、先進的な熊野のいわし漁業法を丹後に伝授したといわれる。

かくして地引網による、いわし漁業は、九十九里一円に伝播し、未曾有のいわし漁獲高を誇り、日本一のいわし漁場の名をほしいままにした。>

と記されている。

平成3年(1991)11月にこのゆかりの地に発祥記念碑が建立されている。

(八咫烏)

 

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