三輪崎八幡神社

JR三輪崎駅の南西約150m、国道42号線沿いに三輪崎八幡神社がある。神社の例祭は9月16日に行われるが、その際に奉納される鯨踊りは、神社階段下と漁港前の広場で行われる。

「万葉集」に、「神の埼狭野の渡り」「神の埼荒磯も見えず」などと詠まれた三輪崎は、中世においては熊野新宮領佐野荘(現、新宮市三輪崎~佐野)に含まれていた。。佐野荘は元来、熊野別当家の嫡流新宮別当家の所領であったが、戦国時代には新宮氏(新屋氏、新氏)の領地とされ、さらに幾多の変遷を経て最後には堀内氏の所領になった。江戸時代、三輪崎には二歩口役所がおかれ、捕鯨の基地として栄えた。また、三輪崎鍛冶(※注1)の発祥地である。

佐野の沖積平野や熊野灘沿岸部では、弥生時代から古墳時代にかけての集落遺跡(佐野遺跡)が確認されている。佐野の砂丘一帯は、那智黒石の産地として有名であった。

JR紀勢本線紀伊佐野駅から国道42号線を南へ約700m行った王子橋バス停そばにある佐野王子跡は、若一王子ともよばれた。鎌倉時代前期頃に創祀されたと推定されるが、佐野王子の名前が初めて出てくるのは、文明5年(1473年)の「九十九王子記」である。明治40年(1907年)天御中主神社に合祀された。現在、跡地には宝篋印塔や石仏などが集められている。

佐野と那智勝浦町宇久井との境の山頂(61m)に和田森城跡があり、山の麓を熊野古道中辺路(現、国道42号線)が走っている。

「佐野下諏訪社」によると、元亀元年(1570年)~天正20年(1592年)に、堀内氏虎・氏善父子がこの和田森城に拠っていたようである。堀内氏は新宮に進出して戦国大名になるまで、和田森城の山麓(旧巴川製紙工場内の一角)に居館を構えていたという。城跡には堀切や曲輪が残る。

(※注1)町名にも残る新宮の鍛冶は、昔からの「入鹿(いるか)鍛冶」と「三輪崎鍛冶」とが合体して形成されたと言われる。9代新宮領主の水野忠央(ただなか)が、新宮萩野(はぎの)の地に製錬所を設け、鍛冶36軒を集めたが、そのほとんどが三輪崎鍛冶であった。故浜畑栄造は、三輪崎鍛冶のルーツを鈴島沖の砂鉄に注目し、当初は鏃(やじり)製造が主であったと推測している。鈴島に鍛冶一人が白馬に跨(またが)り、何処(いずこ)の国からか波に乗ってやってきたという伝説が残っている。

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