熊野速玉大社

JR新宮駅から商店街を通り抜け、国道42号線を約15分歩くと熊野川縁の熊野速玉大社(新宮大社)に着く。当社の社殿は明治16年(1883)に火災で焼失した。そのため、昭和28年(1953)に再建された際に社殿構成が大きく改変され、第2殿(速玉宮)が左端におかれるとともに、第1殿(結宮)・第3殿(証誠殿)・第4殿(若宮)が相殿に、さらに第5~8殿、第9~12殿がそれぞれ相殿になった。これらの改変により、現在の熊野速玉大社の社殿は文化財に指定されていない。

第1殿の祭神である木造熊野夫須美大神座像は、ふくよかで穏やかな面相、頭の上で高く結った髷、両肩と背中に長く垂らした髪の毛をもつ。女神像の体つきは豊満で、左膝を立てて座り、立てた膝の上で重心をやや左に移しつつ、両手を袖のなかに入れたまま静かに座している。女神像の制作時期は、9世紀後半まで遡らせて考えることができる。

第2殿の祭神である木造熊野速玉大神座像は、宝冠をいただいた男神像で、氏神としての威厳を漂わせている。制作時期は9世紀後半と推測される。

熊野速玉大社の第3殿の主祭神は、木造家津御子大神座像である。同じく第3殿にまつられている木造国常立命座像は、やや遅れて9世紀末~10世紀初期に別人によって制作されたと考えられている。

熊野速玉大社の神宝館は、約1000点もの古神宝類を所蔵し、一括して国宝に指定されている。古神宝類の大半は、明徳元年(1390)の遷宮に際して、当時の天皇・上皇・室町幕府3代将軍足利義満および諸国の守護によって奉納されたものであるとされている。

ほかに、当社の本願寺院の霊光庵跡から山茶碗などとともに出土した鎌倉時代作の鉄斧と、同じく鎌倉時代に制作された入峰の斧、室町時代中期のちょうな始儀式用具3点、戦国時代の「永正十一年(1514)」銘の御正体、16世紀末に制作され、神うらないに使われた鉄製のツ三口釜なども県の文化財に指定されている。

なお、鎌倉時代から江戸時代にかけての「熊野速玉大社文書」5巻は、当時の熊野地方の歴史を知るうえで貴重なものである。

熊野速玉大社では、現在、例大祭として毎年10月15日に神馬渡御、16日に御船祭が行われ、熊野速玉祭として県の無形民俗文化財に指定されている。このほかに7月14日に行われる扇立祭がある。

なお、熊野速玉大社の鳥居の南側には、聖護院門跡の宿所の梅本庵主屋敷跡がある。熊野速玉大社周辺にはいくつかの経塚郡がある。権現山奥、かつて熊野速玉大社の神宮寺有峰寺のあった場所近くの小丘上に如法堂経塚郡(6か所)がある。ここから金製毛彫薬師象が納入された平安時代末期の陶製経外筒、建治元年(1275)に信濃国、の井上源氏女が奉納した金銅製の経筒、「弘安4年(1281)」在銘の経筒、鎌倉時代作の金銅製懸仏、室町時代の礫石経などが出土している。

このほかに本殿裏側の礫石経塚群(3カ所)、社務所近くの庵主池経塚群(2ケ所)、御旅所礫石経塚などが確認されている。礫石経塚群からは礫石経石、杮経などが一括して出土し、庵主池経塚群からは、平安時代末期から鎌倉時代にかけての、十一面千手観音像と金銅製懸仏、南北朝時代の銅納札、室町時代の土製地蔵菩薩像の破片多数が出土している。

熊野速玉大社から南の神倉山に至る1㎞ほどの道筋には、寺院が立ち並ぶ別当屋敷町がある。本広寺から順に南に訪ねてみよう。別当屋敷町の南を堀端通りがほぼ東西に通っている。町名の由来は、江戸時代に旧長徳寺・旧専光寺のあった地域(横町の西側)に、平安時代末期の鳥居在庁の住房を起源とする熊野別当屋敷跡があったことによるという。

熊野別当は平安時代後期から南北朝時代中期にかけて、熊野三山検校の支配を受けつつ、熊野三山の政治・経済・軍事の実権を握っていた熊野修験教団の事実上の統括者であり、在地武士団や熊野水軍の指導者でもあった。熊野別当家は、平安時代末期に新宮別当家(長範家)と田辺別当家(湛快家)に分立したが、新宮別当家の人々は、この別当屋敷町を中心に新宮・那智方面に勢力を振るったという。しかし、のちに彼らはその拠点を丹鶴山南東麓に移し、諸家(宮崎氏、瀧本氏、鵜殿氏、鳥居氏ほか)に分裂していったという。

慶長年間(1596-1615)、この屋敷跡に日蓮宗の法華寺が建立されたが、延宝6年(1678)に、紀州藩付家老で丹鶴城3代城主であった水野重上によって本広寺と改名された。なお、境内には、新宮出身で茶道江戸千家の基礎をつくった川上不白が、閑静9年(1797)に建立した書写妙法蓮華経印塔がある。

戦国大名として台頭しつつあった堀内氏は、天正年間(1573-92)の初め頃に、佐野から熊野速玉大社近くの宇井野地に拠点を移し、周囲に堀をめぐらした方1町の居館を構え、熊野地方に威を振るった。堀内氏の居館跡は、堀内氏が退転した後、元和年間(1615-24)に、紀州藩付家老で丹鶴城2代城主の水野重良が矢倉町にあった真梁寺を全龍寺(曹洞宗)と改名し、その居館跡に移建し、水野家の菩提寺とした。

宗応寺(崗輪時、曹洞宗)は、もともと丹鶴山南麓にあって熊野速玉大社の神宮寺としての役割をはたしていた。その後、香林寺と名を改め、堀内氏善によって天正年間に曹洞宗の禅寺とされた。香林寺は慶長6年(1601)、浅野氏が丹鶴城を築く際に現在地に移転させられ、さらに1606年に、丹鶴城主浅野長吉の命を受け、寺の名前を宋応寺と変えた。

宋応寺には、現在、南北朝時代作の木造聖徳太子立像と、絹本着色仏涅槃図が所蔵されている。聖徳太子像は、2歳のときに東を向いて経典を唱えたとされる南無仏太子象像である。上半身は裸で、下半身には緋色の長袴を着けている。14世紀前半、律宗寺院だった頃に制作されたものと推考される。

無量寿寺(臨済宗)は、千穂ヶ岳(権現山、253m)の東麓の山際地にある。本尊は、鎌倉時代に制作されたと推定される阿弥陀三尊像である。

また、ここには南北朝時代から室町時代初期頃にかけての絹本着色仏涅槃図や、室町時代の絹本着色十六羅漢図もある。

 

 

 

 

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