神倉神社
神倉神社(国史跡)は、熊野速玉大社の南西、千穂ケ岳(権現山、253m、国史跡)の南端に位置する神倉山(神蔵山、199m)の山頂から少し下ったところに鎮座している。神倉山は、JR新宮駅から踏切を越えて駅の裏側を西へ8分ほど歩いて、国道42号線を南にくだり、最初の曲がり角を右に折れた突き当りにある。
この神社の神体は、町中からはっきりと見える「ごとびき岩」と呼ばれる山上の巨岩である。昭和31年(1956年)に「ごとびき岩」周辺3カ所から、神倉山を修業場とした修験者(神倉聖)によって造営された神倉山経塚が発見され、平安時代末期の鏡面毛彫馬頭観音像・亀甲紋双雀鏡、湖州八花鏡、常滑刻線文経壷、陶製経筒、青白磁合子、鎌倉時代の金銅製十一面観音像・懸仏、室町時代の一字一石経石などが出土している。
さらに注目すべきことは、その下層から滑石製模造品、袈裟襷文銅鐸の破片が出土したことである。この信仰の背後には、原始以来の磐座(いわくら)信仰があったことがわかる。
神倉神社の祭神は、天照大神・高倉下命である。「日本書記」に登場する「熊野神邑」の天磐楯が神倉山に比定されるところから、ここに高倉下命がまつられるようになったと考えられる。神仏習合に基づくその後の熊野信仰の隆盛により、神倉山は熊野権現の降臨地とされ、熊野速玉大社の奥の院となったが、その後、同社の摂社となった。
神社の境内には、本殿のほかに並宮と崖にかけられた拝殿(本堂)が設けられていたが、拝殿は台風により倒壊し今はない。山麓から「ごとびき岩」まで続く、自然石を巧みに組み合わせて作った538段の急な石段(国史跡)は、源頼朝によって寄進されたと伝えられるものである。現在、山麓には、大鳥居や太鼓橋などが設けられ、「下馬」標石(国史跡)も今に伝わっている。
例大祭の御燈祭(県民俗)は、毎年2月6日に実施されている。この祭りは、元来、旧正月6日の修正会に行われた火祭で、白装束を着た男たち数百人が、燃えさかる松明を片手に石段の途中から急坂をいっせいに走りくだる非常に勇壮な祭りとして有名である。
妙心寺(臨済宗)は神倉山の登り口にある。もとは尼寺で、本尊は愛染明王である。平安時代末期の12世紀初頭に天台宗寺院として開基されたが、鎌倉時代末期に法燈国師とその母親が住んだことにより臨済宗法燈派になったと伝えられている。当寺には、鎌倉時代の木鉢や、江戸時代前期作の聖徳尼・永信尼坐像などが所蔵されている。木鉢は仏具の一種で、僧侶が人家をまわり喜捨を請う托鉢の際に使用されたもので、法燈国師の遺品とされている。
八咫烏