徐福の墓と浮島の森

徐福の墓
JR新宮駅から東へ100mほど歩いていくと、徐福公園があり、そこは徐福の墓があった所と言い伝えられている。徐福は、秦の始皇帝の命令により、不老不死の薬を求めて数千人の子供たちを率いて蓬莱山に向かって船出したが、ついに帰国することなくその消息が途絶えたという。

日本には、徐福が熊野地方に漂着し熊野で没したという伝えがあり、永和2年(1376年)に明に渡った絶海中津が太祖洪武帝に謁した際に、徐福の消息について尋ねられたことに対し、「熊野峰前に徐福の祠がある」と答えている。さらに、「紀伊続風土記」によると、慶長年間(1596-1615)の熊野新宮修営に際し、「徐福の墓」が築かれたようである。

現在、その地には中国から渡来した紀州藩の儒臣李梅渓筆の「秦徐福之墓」碑と藩儒仁井田好古撰の秦徐福碑が建てられている。なお、阿須賀神社の背後にある蓬莱山の名は、徐福がここに生育する薬草の不老不死の天台烏薬を採取したという言い伝えに由来しているという。

浮島の森
新宮駅から西へ7分ほど歩いたところに、浮島の森(新宮沢浮島植物群落、国天然記念物)がある。底なしといわれる湿地帯にある森(4962㎡)には、ヤマモモ・スギ・アカマツ・ヤブニッケイなどが群生し、それらの樹の下に生育するミズゴケの間に、温帯性のヤマドリゼンマイや亜熱帯性のテツホシダなどが混生しており、植物生態・分布学上貴重な存在である。

 

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