太地町の捕鯨の歴史⑩~伝統芸能「くじら踊り」

志摩半島の南部の北牟婁郡海山町紀伊長島町が串本から潮ノ岬を通って紀ノ川流域の北の和泉山地までの広大な紀伊半島南部を紀伊の国といい、紀州徳川藩の領地であったが、その中で紀伊藩を監視するように譜代大名の水野氏を置いた。

紀州藩は串本あたりの古座に鯨方を、また熊野灘に面する島勝浦、白浦、九木浦にも鯨方を置き、これらを藩営によって運営した。同様に三輪崎にも新宮藩が鯨方を置いた。太地の鯨組の統領、角右衛門(太地頼治)は、新宮藩に土佐への網取式の捕鯨技術の伝承の許しを乞うている。

和歌山県新宮市の三輪崎には、「鯨おどり」と呼ばれる「殿中踊り」と「綾踊り」の二曲が残っている。殿中踊りは、網を投げる様子を表現しており、綾踊りは、銛を投げる様子を表現している。

三輪崎は新宮藩の藩営捕鯨業の行われていたところ。船上で踊ったこともあると伝えられるが浜辺で踊るのが正式で、正月出初めや氏神祭礼、また江戸時代には新宮藩主へのお目見えの折に演じたものという。「殿中踊り」は藩主の前で演じたことからの名であると伝えられている。

しかし、捕鯨の衰退とともに「鯨おどり」も途絶えたままになっていたのだが、大正13年(1924)八幡神社の祭りで復活し、現在は保存会により毎年9月15日の三輪崎八幡神社例祭で披露されている。

(出典:歴史と文化探訪 日本人とくじら―尾張、伊勢・志摩、熊野、紀州、摂津・播磨、瀬戸内、土佐

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