補陀落渡海
先に紹介した那智参詣曼荼羅で印象深いのは、那智湾に浮かぶ補陀落渡海船である。南の海の彼方にあるという観音の補陀落浄土。那智山は古来、「補陀落の東門」といわれ、観音信仰の一大拠点であった。この補陀落浄土に小舟で乗り出す実践行を補陀落渡海という。
小舟には屋形が造られ扉はない。「波阿弥陀仏」あるいは、「観音丸」と書かれた帆を上げ、四方には密教修行の階梯である四門(発心門・修行門・菩提門・涅槃門)が建てられた。四門は葬送の儀礼にも見られる。渡海船に従随する二艘には、同行者であろうか、僧や山伏らが乗っている。
ところでこの渡海シーンの主役は、補陀落山寺前の大鳥居下に立つ赤頭巾を被った三人である。この三人は「平家物語」が伝える屋島の合戦から敵前逃亡し、熊野参詣の後、那智の海に入水したという平維盛一行(平維盛・兵衛入道重景・石童丸)であると思われる。その証拠に右端の石童丸が小さく描かれている。
広く知られた「平家物語」を題材に、渡海のヒーローとして活写・絵解きされたとみたい。三人は数人の僧の葬送儀式を受け、今まさに船に乗り込もうとしているのだ。船の先には、四つの島が描かれている。渡海をいやがった金光坊が殺されたという金光坊島、船の帆を上げたという帆立島、船の綱を切った処とされる綱切島、松の生えている島は平維盛が入水した山成島であろう。
那智山は、平維盛にかぎらず多くの修行僧が集まり、那智大滝で千日修行を行うなど、渡海のセンターとして栄えた。平維盛一行の赤頭巾は、那智滝衆のシンボル、烏帽子なのである。日本の補陀落渡海記録56例のうち、熊野那智からが27例もある。特に有名なのが、鎌倉武士の下河辺行秀(智定坊)。那須野の狩で大鹿を射損じて出家し、天福元年(1233)、那智浦から渡海した(『吾妻鏡』)。
そのほか、平安時代から江戸時代にかけて、新宮の本願寺院が伝えた、『熊野年代記』には20例、那智本願の訴訟記録『本願中出入証跡之写』には18例の伝承がみえる。多くは外来の修行僧であった。たとえば『熊野年代記』縁起19年(919)は、祐真上人が導いた奥州の人13人を伝える。享禄4年(1531)の足駄上人も九州豊後国の住侶。最後の渡海である享保7年(1722)の宥照上人は和州郡山の住僧であった。
近世には補陀落山寺住僧の水葬と化してしまう渡海であるが、智定坊も30日ほどの食料と油を用意したと伝えるように、中世までは生きながら観音の浄土を目指した渡海の実践行者たち。そのなかに、なんと沖縄に漂着した渡海僧がいた。上野国出身と伝える日秀上人である。彼は天文23年(1554)以前に、熊野から渡海し、沖縄に漂着して熊野信仰を広め、その後薩摩国に帰り、多彩な宗教活動を展開した実在の人物なのだ。彼の生々しい遺品(日秀神社蔵)にふれるとき、修行僧の資質と、民衆教化へのエネルギーが実感できる。
(出典:街道の日本史:南紀と熊野古道)