紀州備長炭の歴史

東京の居酒屋などで焼き物を食べるとき、備長炭が使われていることがよくある。店主は「うちは備長炭を使っています」と自慢するが、こちらは紀州生まれだ、故郷の特産品が使われていることを誇りに思う。その昔、遠距離輸送のメインは海上輸送で、紀州備長炭は新宮の港から大消費地・江戸に向けて運ばれていたのだ。

紀州備長炭は、他に類のない硬さと火持ちの良さをもって知られ、主に焼き物料理の燃料として、うなぎのかば焼き、焼き肉、焼き鳥、焼き魚などに使用されている。備長炭の原料は和歌山県の県木となっているほど紀州で多く産出されるウバメガシで、これを用いて白炭にする技術が元禄時代頃に生みだされたという。

起源については、万治年間(1658-61年)に日高郡高津尾(日高川町)の大津屋市右衛門が創業したとか、元禄年間(1688-1704年)に田辺の炭問屋備中屋長左衛門の名が付けられたとかいわれるものの、史料がないため証明できない。しかし、備長炭の名の由来は、おそらく前述の田辺の炭問屋備中屋長左衛門が、備中屋の「備」と長左衛門の「長」の字を組み合わせて江戸に送り出す商品名にしたことから始まると推測される。

備中屋長左衛門は、享保15年(1730年)から安政元年(1854年)までの間に4代の長左衛門が確認され、その分家は江戸で大坂屋と称して木炭を販売していた。

備中屋の備長炭は、その硬さと火持ちの良さから江戸で大評判を得た。そのため、各藩も備長炭に注目し、その製造技術を学ぼうとしたが、紀州藩は特産物として国益を守るため、この技術を門外不出とした。

しかし、安政3年に薩摩藩が山元藤助らを紀州に送り、製炭技術を学ばせている。この時の記録が宮崎市の山元家に保存され、江戸時代の備長炭を記した貴重な資料となっている。

明治時代になると、備長炭の技術を学んだ地域では、土佐備長炭、日向備長炭などが出現してきたため、本家紀州において紀州備長炭と称するようになったが、その名声は今も全国にとどろいている。

(出典:和歌山県謎解き散歩)

八咫烏

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