弁慶は紀州田辺の出身だった?

「判官びいき」という言葉があるように、世に源義経ファンは多い。その義経を語る時に忘れてならないのが武蔵坊弁慶だ。弁慶は、歌舞伎「勧進帳」などでは源義経に付き従う知勇に優れた忠節なる法師として登場する。いったい武蔵坊弁慶とは、どのような人物だったのだろうか。

鎌倉幕府の公式記録である「吾妻鏡」に弁慶はわずかながら登場する。すなわち、文治元年(1185)11月に源義経が、兄頼朝との衝突を避けて船で九州へ出発しようとするところと、その船が天候不順の荒海で転覆し、義経の軍勢が四散し、わずかな従者のみが残ったところである。前者では、「弁慶法師」、後者では「武蔵坊弁慶」とある。どうやら義経の側近に弁慶がいた事実は確かなことのようであるが、これ以上のことはわからない。

「看聞日記」の永享6年(1434)に「弁慶物語」が登場し、すでに人々を楽しませていたことがわかる。室町初期から中期にかけて成立した「義経記」には、よく知られたような弁慶像が描かれている。牛若丸との対決も、五条天神南の築地塀沿いでの勝負として描かれ、牛若丸の軽快な身のこなしに弁慶が翻弄され、数度の強力な弁慶の太刀攻撃もかわされてしまう。

二度目の勝負は、清水寺でなされ、堂内での法華経読誦も牛若丸と弁慶でなされ、両者の呼応する声の見事さに参詣人が聞き入ったとある。この清水寺の勝負に負けた弁慶が牛若丸の従者になったというストーリーとなっている。五条の橋の対決は、「弁慶物語」には北野天神に次いで二回目の対決場所として登場する。

弁慶は、熊野別当の子供で、二位大納言の娘が、その母という。この娘が病気平癒の祈願を熊野権現にし、その霊験によって病気平癒したので熊野へお礼参りに行った道中で、熊野別当がこれを見初め、一行の帰途を襲って娘を奪ったという。この娘との間に生まれたのが弁慶とされているから、作り話とはいえ、ずいぶん乱暴な話である。

また弁慶は母の胎内に18カ月いて、生まれた時には前歯ばかりでなく奥歯も生えそろい、髪の毛も長く伸びていたという。父親は、この我が子に驚いて殺そうとするが、別当の妹が命乞いをして、京都で鬼若丸と名付けられて育てられた。その後、比叡山の西塔で僧となり、武蔵坊弁慶と名乗ったという。

田辺の熊野別当屋敷跡付近に弁慶産湯の井戸、腰掛石、弁慶の松などが残されているが、弁慶の実像とは結びつきにくく、やはり実像は謎のベールに包まれたままである。

八咫烏

 

 

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