荻悦子詩集より~「雨の午後のレッスン」

 雨の午後のレッスン

 

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青年の方に首を巡らせ
自分の胸の辺りから
滞った空気を掬いあげるような目つきをして
ピアニストが
曲の解釈を述べ立てている
その根拠のほとんどは
同じ主題を扱った画家の絵や
言葉で書かれた書物に負っている

群衆のざわめきが
やがて怒涛のような叫びとなったのです
過ぎ越しの祭りの日
どういう日でしたか
そう
罪人のうち一人だけを許してもいい日でした
イエスではなくバラバを
その群衆の声が
次第に大きくなって聞こえてこなければなりません

彼女は弾き始める
大きくうねり
細やかにきらめいた後
息をひそめ
玉を繋ぐ糸がほどけたように
水底へ沈んでいく音色
初老のピアニストは
存分に歌い上げ
恐ろしいほどロマンチックにバッハを弾く

ピアニストの背後に
大きく揺れる暗い塊がある
窓の外の
風と雨にあおられる葛である
秋の初め
広い葉の一枚一枚は
まだ柔らかな色をして軽やかに見えるが
それらがびっしりと重なり合うと
木の枝を覆い隠してしまう

表情の少ない青年は
蝋人形のように動かない
細いジーンズの足を揃え
額を光らせて
ピアニストの音を追っている
いま彼の感受性を支配しているのは
先に彼女によって説明された劇的な人間の情景
つまりは言葉ということになりはしないか

劇がなければならない
なかったかも知れないなどとは言わせない
自信に満ちたピアニスト
灰色の細い眼
丸顔を縁取って
ひとかたまりずつ
ふわっと立ち上がる短い巻き毛
太い首から
顔を前に倒し
その表情は梟を思い出させる

窓の外では
葛の葉と花が揺れ騒ぎ
その下で
絡めとられた細い木の幹も撓う
木の枝や葉は葛に覆われてしまって
外からはほとんど見えない
雨のなか
葛の蔓はまた伸びて
取りつく先が見えないまま
宙で揺れている

荻悦子詩集「流体」より

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