【コラム】私のわんぱく時代

過日、佐藤春夫の自叙伝的小説「わんぱく時代」の読書感想文を書いた。その中で、彼が通っていた小学校でまず、ひとりのがき大将との出会いとその後の関りについての話がでてくる。どこの学校でも、がき大将が少なくとも一人はおり数人の子分を連れて歩く様子はよく見る姿である。

この物語では、実は、もうひとりのがき大将が出てくる。それは、冒頭から紹介される転校生である。学力は優秀であったが腕っぷしが強くけんかっ早いちょっと困った生徒であった。何かの都合で家が引越しをして転校してきたのだが、担任教師も一癖ありそうな面魂のこの生徒の扱い方を苦慮していた。

やがて、春夫はこの二人と関わることになり、元々二つの小学校のがき大将が率いるグループ同士の喧嘩に巻き込まれていく。しかし、お互いに体に傷を負うようなことにならないようにと知恵を絞り「子供戦争」を提案する。「戦争ごっこ」のルールなど詳しい内容については原本を読んでいただくとして、ともかくも二人のがき大将にも同意させていくというそんな話である。

春夫の「わんぱく時代」を読んで自分自身の小学校時代とかぶる部分があると書いたが、がき大将は同じクラスにいた一人で、彼との関係の在り方が何となく似通っているのだ。H君は、人一倍背も高く横幅もあり体力的にはまずかなうものがいなかった。体力だけならもっと背の高い者もいたが、性格的にH君の上に立てるタイプはおらず、結局彼が何人かの子分を連れて毎日そのあたりでとぐろを巻いていたのである。

当時、子供の遊びといえばまずソフトボールだ。今のようにサッカーはまだ盛んではなく釜本や杉山が活躍するのはそれから数年後のことになる。時は昭和33年、何といっても入団即大活躍の長嶋茂雄の時代だった。田舎のラジオ・テレビ放送は巨人戦が中心で、特に関西では阪神・巨人戦が最大の楽しみであった。

今の子供の野球チームを見ると、みんな立派なユニフォームを着て、道具もすべて立派なものでプロ野球と変わらないくらいだ。当時は、帽子だけは好きなチームのマークが入ったものをかぶり、何とかグローブ、バット、ボールを揃えてやったものだ。放課後や休みの日になると校庭に集合してボールを追いかけるのが楽しくてたまらなかった。

ある時クラスでひとつのチームを作ることになった。守備と打順を決めなければならない。当然のごとくこのH君がしゃしゃり出てきて、だれも文句は言えない。私は、どのように決めていくのかおとなしく見ていたが、結果は意外と不満のあるものにはならなかった。普段の練習というか遊んでいるうちに、自然と誰が足が速いか、誰がゴロ取るのがうまいかはみんな知っている。その結果に基づいたものであれば文句は出ないのだ。

1番は足が速く内野の守備もうまいI君、2番は、そこそこすばしっこいN君と決まる。さて、肝心なのはやはりクリンナップ。そこでH君は発表する。3番は「サードで俺!」。一瞬、「うん?」と思った。誰もがH君は「サードで4番」と思い込んでいたから少し不思議がった。一番そう思ったのは私だった。そして、「4番でピッチャー」に私を指名した。私自身も私を支持してくれている仲間たちも文句はない。何せ、高校野球でよくあるエースで4番だから。彼は、チーム内に二つのグループがあることを充分認識しており、双方に不満が残らないようにしたのだ。

このことがあって、「こいつ一応は考えているな」と私は思った。日頃、がき大将で少し学校から咎められるようなこともするが、いい意味でのリーダーシップは持ちあわせている。誰もが納得できるようにするにはどうすればよいかは心得ているのだ。この時私は、初めて彼に対して一目を置くことになる。彼の方は、私を「4番でピッチャー」にすることで、私に対して一目置いたと言える。

また、別の機会にはこんなシーンがあった。運動会の学級対抗リレーでの4人のメンバーの走る順番だ。4人それぞれが早く、そして協力してバトンタッチしなければリレーは勝てない。そしてこんな場合でもこのがき大将がしゃしゃり出てくる。結果は、スタートが私、花形のアンカーは彼と決まる。アンカーがバトンを受けた後、先行するランナーを抜いて優勝するのが何と言っても最高のシーンである。小学校では、誰もがアンカーにあこがれる。ただ、スタートが得意だった私は他人に任せるよりはとこれで納得した。

さて、もうひとつ、このがき大将との関りで忘れらない思い出がある。小学生がやるスポーツも今ほど多くはなかった時代で、相撲は昔からある伝統的なものでもあり自然とやったものだ。相撲ほど体力がものをいうスポーツはない。身体の大きいものが当然有利で、それに対抗するには舞の海が曙を倒したようにすばしっこさしかない。彼とも何も相撲をとったが、勝敗は五分五分だったと思う。

忘れられないのは眉間の少し上の部分、髪の毛の生え際辺りをコンクリートの階段の角にぶつけて数針縫う羽目になったことだ。それも、一定の時をおいてお互いが同じ場所にだ。この傷は中学、高校と進学しても暫く消えなかったので、いつまでも記憶に残っている。

7年前に、小学校の同窓会に出席して数名のクラスメイトに50年ぶりに会った。当日、道すがら、はたしてH君は来るのかどうかと遠い昔に思いを馳せながら会場に向かった。誰彼となく話すうちにH君はどうしているかと聞くと、その中のひとりから亡くなっったと聞いた。無性に懐かしさと悲しさが襲ってきて自然と涙が浮かんだ。

町並みは少し変わってはいるが、山や海は当時の思い出と共に心の中にはっきりと残っている。

西  敏
(写真は筆者3歳、お燈祭りで)

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