小沢城址

散歩代わりに散策できる城跡が近くにあればいいなと思い検索してみると、川崎市多摩区菅仙谷にある小沢城址が見つかった。ここなら自宅から徒歩でも行ける距離だ。辿り着いた登城口は、本当にここでいいのかと疑いたくなるほど狭かった。きっとほかにもあるに違いない。

小沢城址は、鎌倉〜戦国期にかけて重要な軍事拠点となった“多摩川沿いの要衝を押さえる山城”で、現在も空堀・土塁・物見台などの遺構が良好に残る貴重な史跡である。

小沢城の概要
 – 所  在  地:川崎市多摩区菅仙谷1-4
 – 城 の種類:山城(天守なし)
 – 別       名:小沢天神山城
 – 築城 時期:平安末期〜鎌倉初期(推定)
 – 築  城  者:稲毛三郎重成、またはその子・小沢小太郎と伝わる

立地の特徴
 – 多摩丘陵の先端
 – 北に三沢川、東に多摩川
立地は鎌倉道・矢野口(多摩川)の渡しを抑える交通の要衝で、鎌倉時代から戦国時代にかけて幾度も合戦の舞台となったところである。

歴史:鎌倉〜戦国期の激戦地
鎌倉時代初期
  – 小沢小太郎(稲毛三郎重成の子)の居城として機能。
    この地域の支配拠点だったと考えられる。

南北朝〜戦国時代(激戦の歴史)
    時代が変わってもその重要性は変わらず、歴史に名を残す武将たちの争奪戦の舞台となった。

  • 鎌倉幕府滅亡時: 新田義貞の軍勢と鎌倉北条軍が激突。
  • 南北朝期(観応の擾乱): 足利尊氏方の高麗軍と足利直義軍による激しい攻防戦が起き、城が焼失したと記録されている。
  • 戦国時代: 関東の覇権をめぐり、北条早雲率いる後北条軍と、上杉顕定率いる上杉軍が激突。のちに後北条氏の3代目となる高名な武将・北条氏康が、15歳で初陣(小沢原の戦い)を飾り、上杉朝興の軍を破った地としても有名。

江戸時代から現代へ:富士講と太平洋戦争の記憶

​戦国時代以降に役割を終えて廃城となった小沢城だが、その後も興味深い歴史を紡いでいる。

江戸時代の「富士講」信仰

江戸時代中期以降、庶民の間で富士山信仰(富士講)が大流行した。小沢城址の山頂や尾根(浅間山)は、関八州(関東地方)を見渡せる絶景スポットであったことから富士塚として利用されるようになり、今も幕末〜明治にかけて建てられた「富士登山三十三度大願成就」の石碑や祠がひっそりと残されている。

また、太平洋戦争中には、この見晴らしの良さから日本軍の探照灯(サーチライト)陣地が置かれた。ここから夜空を照らし、隣の生田緑地(枡形山城址)に配備された高射砲と連携して、本土に襲来する米軍のB-29爆撃機を迎撃していたという近代の戦史の傷跡も留めている。

縄張り(構造)と残される遺構
小沢城は、多摩丘陵の尾根筋を巧みに利用した典型的な「山城」。現在も散策路沿いに以下のような中世の遺構を間近に見ることができる。

  • 小沢峰(物見台跡): 標高約85mの城内最高所にあり、かつては多摩川の対岸(深大寺城方面など)を広く見渡す監視拠点だった。
  • 浅間山(櫓台・曲輪跡): 物見台と対をなす防衛拠点で、城の中心部を守るための平場(曲輪・くるわ)や土塁が伸びている。
  • 空堀(からぼり)・堀切(ほりきり): 尾根を断ち切って敵の侵入を防ぐ溝が今もくっきりと残されている。
  • 古井戸跡: 尾根の近くにある珍しい井戸の跡です。落城・廃城の際、敵に利用されないよう、あるいは危険防止のために、城内に備蓄されていた防衛用の石「つぶて石(投石用の石)」で埋められたという、山城ならではの切ない伝承が残っている。
  • 馬場跡: 城内の西側には、兵や馬を駐屯させたとみられる広大な削平地(平らな土地)が広がっている。

​散策のヒント

​小沢城址は、お隣の東京都稲城市との境界近くに位置している。京王相模原線の「京王稲田堤駅」や小田急線の「読売ランド前駅」などから、多摩自然遊歩道を経由して歩くのが定番のハイキングコースだ。

​城址のすぐ隣(稲城市側)には、東京の名湧水57選にも選ばれている「御神水」がコンコンと湧き出る穴澤天神社があり、あわせて巡るのがおすすめ。一歩足を踏み入れると、川崎の住宅街のすぐ近くとは思えないほど静かで厳かな、中世・里山の空気感を今も肌で感じることができる。

現地には、有名な城ならある資料館やサービスセンターなどはなく、案内板も少ない。散策するだけでは歴史や以降について詳しく知ることはできない。城を詳しく知るためには自分で調べるしかない。比較的自宅から近い城跡にこれほどの歴史があるとは知らなかった。まさに灯台下暗し。

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