小田原城主の変遷

一般的に、小田原城の城主は北条氏であると認識されていることが多い。しかし、実際には、ここほど多くの城主が入れ替わった城も珍しい。ガイドさんの解説の一番最初に出てきた言葉がこのことだった。そこで、小田原城の城主の変遷について改めて調べてみた結果を報告しよう。

1. 黎明期:大森氏の時代(15世紀初頭 〜 1495年)
​  小田原城の歴史は、駿河国(現在の静岡県)から進出してきた国人領主・大森氏によって始まる。

 ・大森頼春(おおもり よりはる) らの時代
1417年の「上杉禅秀の乱」の後、大森氏が小田原周辺の領地を与えられ、現在の城址の北側にある八幡山周辺に最初の砦(城)を築いたのが起源とされている。当時の小田原城は、まだ中世の小規模な山城に過ぎなかった。

​2. 戦国大名:後北条氏の五代(1495年 〜 1590年)
小田原城を「関東最大の巨城」へと押し上げ、その名を天下に轟かせたのが後北条氏である。ここから約100年間、北条家が代々城主を務めた。

  • 初代:北条早雲(伊勢宗瑞)
    1495年(諸説あり)、大森藤頼から策略を用いて小田原城を奪取。相模国平定の拠点とした。
  • 二代:北条氏綱
    本拠地を正式に小田原へ移し、城の大規模な改修を開始。名字を「伊勢」から「北条」に改めた。
  • 三代:北条氏康
    名将として名高く、上杉謙信(1561年)武田信玄(1569年)といった名だたる名将による小田原攻めを、鉄壁の防衛力でことごとく退け、「不落の城」の伝説を作った。
  • 四代:北条氏政 / 五代:北条氏直
    豊臣秀吉との対立が決定的になると、城下町全体を全長約9キロメートルに及ぶ堀と土塁で囲む広大な「総構(そうがまえ)」を構築。城主は氏直に移っていたが、実権は氏政が握っていた。しかし1590年、秀吉の圧倒的な大軍に包囲され(小田原合戦)、3ヶ月の籠城の末に開城。北条氏は滅亡した。

​3. 江戸幕府の誕生と城主の激しい交代(1590年 〜 1686年)
​  北条氏の滅亡後、関東に入封した徳川家康は、箱根の登り口にあたる小田原を重要視し、絶大な信頼を置く譜代大名を配置した。しかし、政争や将軍家の事情により城主は激しく交代する。

​ ① 前期大久保氏の時代(1590年 〜 1614年)
​ ・大久保忠世(ただよ) / 大久保忠隣(ただちか)
秀吉の命により家康の重臣・大久保忠世が4万5千石で入城。二代・忠隣の代には、中世の土の城から、石垣や瓦を用いた近世城郭へと改修を進めた。しかし1614年、忠隣は幕府内の政争(大久保長安事件などへの連座)に巻き込まれて突如改易(領地没収)となり、小田原城の石垣や城門は一度破壊されてしまう。

​ ② 番城・臨時城主の時代(1614年 〜 1632年)
大久保氏の改易後、しばらく小田原城は城主のいない幕府直轄の「番城(代官が管理する城)」となった。

 ・阿部正次(あべ まさつぐ)
1619年に5万石で入封するが、わずか4年後の1623年に岩槻藩(埼玉県)へ転封。再び番城に戻る。一時期は二代将軍・徳川秀忠の隠居城とする計画もあった。

​ ③ 稲葉氏の時代(1632年 〜 1685年)
 ・稲葉正勝(まさかつ)正則(まさのり)正往(まさみち)
1632年、三代将軍・徳川家光の乳母である春日局かすがのつぼね)の息子、稲葉正勝が8万5千石で入城。将軍側近の重臣を迎えたことで、小田原城は幕府の公費によって大規模に大改修(公費普請)され、近代的な天守や強固な桝形門が完成する。稲葉氏は3代にわたって小田原を統治したが、1685年に越後高田藩へと転封になった。

​4. 宿命の復帰と安定:後期大久保氏の時代(1686年 〜 1871年)
稲葉氏が去った後、小田原城に劇的な復帰を果たしたのが、かつて改易された大久保氏の家系であった。

 ・大久保忠朝から 大久保忠良まで(計10代)
大久保忠隣のひ孫にあたる忠朝が、貞享3年(1686年)に11万3千石で小田原城主に返り咲く。先祖の不名誉を挽回した大久保家は、ここから明治の世にいたるまで約185年間、一族で一度も交代することなく代々小田原城主(小田原藩主)を務め上げた。​幕末の動乱期には、9代・忠礼が箱根での戊辰戦争に対応し、最終的には新政府軍に恭順して開城。最後の城主となった10代・忠良の時代の明治4年(1871)、廃藩置県にともない小田原城は廃城となり、多くの建物が解体された。

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