まぼろしの三冠王
長い腕から離れた球は、まともに長嶋の体に向かってきた。「危ない!」思わずのけぞった。身の軽い長嶋はよけきれたと思った。だが、無念。シュート気味にきたバッキーの速い球は右手薬指に鈍い音を立てて当たった。伝統の巨人阪神戦に超満員のスタンドも一瞬、ハッと静まりかえった。次打者の王が駆け寄ってタオルで血をふき取った。
昭和38年9月9日、ペナントレースはあと一ヶ月半で終わろうとしていた。それまで長嶋は、打率、本塁打、打点いずれもトップに立って「ただいま三冠王」-順風満帆であった。マスコミも連日、長嶋の一打席一打席を報じた。いやが上にも三冠王ムードは盛り上がっていた。「こんなチャンスはこれからもあるかどうかわからない。打者として生まれたからには何とかやってみたい。」
戦前、2シーズン時代に、巨人の中島治康氏が達成しているが、試合数その他条件が違う。まして、後輩の王が力をつけてきており、本塁打王をとれるチャンスはこれからますます少なくなってくるだけに、なおのこと、「ここでとらねば・・・」の気持ちは強かった。
だが、バッキーの1球で長嶋の夢はもろくも崩れ去ったのである。右手薬指骨折という診断ーその瞬間に、三冠王の栄光は遠のいていった。5試合休んでいる間に本塁打王は、王に奪われてしまっていた。そして、このシーズン、長嶋は首位打者、打点王の2冠は獲りながら、一度、王に抜かれた本塁打王は、ついに王から奪い返すことはできなかった。
その後、時代は移り、野村が1回、王が2回、落合が3回、ブーマーが1回、バースが2回、見事、三冠王を達成しているが、長嶋茂雄の名はそこにはない。