長嶋茂雄の背番号秘話

東京6大学リーグで通算8本のホームラン新記録をつくった長嶋に、まず南海が、つづいて巨人と中日が猛烈なスカウト合戦をくりひろげた。当時、「野球界」の編集長だった関三穂さんは、まだ長嶋の巨人入団が正式に決まっていない段階の11月9日、巨人のバッテイングコーチ兼任だった川上哲治に頼まれ、会食の場をセッテイングした。

それは、六大学の秋のリーグ戦の最後を飾る早慶一回戦があった日で、立大のスケジュールはすでに終わり、長嶋の巨人入りが濃厚と伝えられていた時期だった。長嶋は、編集部のYさんの案内でいったん飯田橋の「野球界」編集応接室に行き、そこで川上と落ち合った。待ちかねていた川上は、「20年ぐらい巨人の4番の座を守ってくれる男がきてくれて、私も安心だ。」と、言った。ここから神楽坂の料亭に場所を移し、神宮球場で長嶋が打った新記録の8号ホーマーの話も出た。

ついで、巨人に入団した場合の長嶋の背番号に話題が移ると、川上は、「15番がいいんじゃないか」と、しきりに15番を勧めた。この年、巨人の15番は、川上の控えとして一塁を守っていた岩下守道がつけていた。いうまでもなく14番はすでに永久欠番となっている沢村がつけていたもので、16番の川上もいずれは永久欠番となるのが確実だった。川上が勧めた15番は、ちょうどその間におさまり、川上とも続き番号になる。

この当時、水原監督の次に巨人の監督になるのは川上か千葉茂のいずれかとみられていた。球歴では川上、選手の人望では千葉といわれていて、川上には前途洋々の新人・長嶋をなんとしても取り込みたかったのかもしれない。しかし、15番を勧められた長嶋は、「その15番って、どうもつけた格好がよくないですね。ぼくは一桁がいいです。」と、それ以上、川上の話に乗ってこようとはしなかった。 もしこのとき、長嶋が川上の勧めたとおり15番をつけていたとしたら、2000年2月の宮崎キャンプの3番フィーバーも起きなかったことになる。

二軍監督の千葉に球団から電話があったのは、それからまもない57年の暮れのことだった。宇野球団代表が遠慮がちに千葉に言った。「なあ、頼みがあるんや。有望な長嶋に君の背番号をやってくれへんかやろか」 千葉は、「どうぞ、継いでくれるのが長嶋ならええですよ。」と、即答した。

年が明けた3月の明石キャンプで千葉の姿をみかけた長嶋は、「光栄に思っています。ありがとうございました。」と挨拶した。そのころには千葉の背番号は31となっていた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です