長嶋茂雄 誘拐未遂事件
昭和48年9月26日のこと。松本投手の早い投球テンポにバットが合わず、巨人が中日に敗れた夜、長嶋は早々と着替えると、いつものように球場の裏口から表に出た。愛車センチュリーで家路へと急ぐ長嶋はやがて高速道路へとあがったのだが、その頃見え隠れに追ってくる1台の小型車には気付かなかった。
当時、中原街道は、夜になると道路工事を始めており、片側通行となっていたため急に込みだしてきた。交差点に入ると長嶋は急に思い立ってウインカーを右に出した。おぼえたばかりの道があったのだ。このとっさの方向転換が予期せぬ重大な事態を避けさせたことなど知る由もなかった。
それから10日後の10月5日、巨人軍は広島市の郊外、佐伯軍五日市町の広島工業大学のグラウンドでデーゲーム用の練習を行っていた。「長嶋さん、川崎の高津さんから電話ですよ。」と宿の人が呼び出しにきた。いったい誰だかわからぬまま長嶋は電話に出た。
電話の主は高津さんならぬ、川崎市の高津警察署だったのである。高津署の説明によると、犯人は5人組で刃渡り約20センチの刺身包丁とロープを準備していた。しかし、長嶋の車を見失って失敗したので、二度目の襲撃を9日に計画していた。
ところが、仲間割れした一人が高津署に「長嶋選手を襲い、大金を奪う計画を立てている。」と密告してきたというのである。主犯の労務者辻一夫(当時24歳)は47年12月に大阪で日本刀で家人を脅し、現金40万円を奪った事件の容疑者として指名手配されていた札付きだったのだ。
この事件が起こってから、後楽園球場での試合後、選手の帰る時には通用門に警官が厳重な警戒をするようになった。