森本剛史の世界紀行~⑯熊野古道2 八鬼山越え(三重県側)

「お客さん、雨具の用意してきました? 尾鷲は日本一雨が多いところやからね」

 尾鷲駅前からタクシーに乗り込むや、運転手にこう言われた。確かに尾鷲は年間の降雨量が4000mmを超えるという多雨地帯。雨が友達のようなところなのである。運転手に、八鬼山(やきやま)越えをするのだというと「けっこう大変ですよ。峠を越えて三木里(みきさと)まで>約10km、4時間はかかりますな」と言った。「地元では健脚者コースと呼んでいます。ま、怪我のないよう頑張って下さい」とにやりと笑った。

この伊勢路は江戸時代以降盛んに歩かれるようになった街道だ。伊勢参宮を終えた旅人が熊野三山その先の西国三十三カ所巡りに歩いた、いわば庶民の道だ。伊勢参り、熊野三山参拝、西国巡礼は当時ひとつの旅行セットになっていた。この伊勢路にはツヅラト峠、馬越峠、松本峠など急峻な坂道があるので有名だが、そのなかでも“西国一の難所”と恐れられたのは八鬼山越えであった。

八鬼山は標高627mしかないが海岸から一気に急勾配の山。八鬼山越えは、険しい山道の足場の悪さに加え追いはぎや狼も出没し当時の旅人を悩ませた。尾鷲の雨も旅人の大敵であった。熊野三山、西国巡礼への広大慈悲の道は冷酷非情な道でもあったのだ。

頂上まで約2時間の行程

その八鬼山越えの登り口は、尾鷲市の東南3.4kmの地点の矢浜。東邦石油のタンクが立ち並ぶところにあり、尾鷲節の歌碑が目印だ。その歌碑には「ままになるならあの八鬼山を 鍬でならして 通わせる」と書かれている。これは天保年間(1830 ~44)、尾鷲側の矢浜の若い大工と、三木里に住む娘との悲恋物語に由来するといわれ、昭和32年に地元の人たちによって建立された。

その歌碑を午前9時20分出発。いまにも泣き出しそうな空だったが、晴れてくれと心に念じ、頂上を目指した。右手に石油タンクを見ながら15分歩くと八鬼山入口の標識と地図があった。地図上には、頂上(峠)まで2時間20分と記されていた。ありがたかったのはたくさんの杖が立てかけられていたこと。今回の私の旅はこの杖がなかったら、どれだけ石畳でひっくり返っていたことか。

桜並木の林道を進み、山中の古道へと入る。石畳が現れ、道幅も狭くなり登りもゆるやかだ。麓茶屋跡の後、駕篭立場と記された案内板が目に入った。紀州藩士たちは峠越えの前後にここで駕篭を休め、ほっと一息ついたのだろう。傍らの祠には小さな石仏があり、これは町石を兼ねた地蔵であった。町石とは麓から頂上まで一町(約108m)ごとに立てられていた道標のことで、かつては50体もあったというが、現在は33体が残っている。

「行き倒れ巡礼碑」を通過。熊野に向かう途中に亡くなっ た巡礼者の墓標で、八鬼山には4つの墓標が残っているそうだ。せせらぎを二つまたぎ林道をしばらく進むと、「七曲り280m15分」の案内板があった。時計を見ると10時20分、出発してちょうど1時間だ。

急勾配をジグザグに曲りながら登る最大の難所で、あちこちには墓碑が見える。谷川のせせらぎが谷底から湧いてくるように大きくなった。時々汗をぬぐい、息を整えて一歩でも上へと脚を上げる。案内板通りちょう ど15分で登りきると33番目の町石が迎えてくれた。ここで視界は一気に開け眼下に尾鷲の町が見渡せた。

平坦な道と登り坂を何度か繰り返していると、上空からの心地よ い風に包まれた。九木峠だ。標高522m地点。峠の風が私を巻くように吹いていく。木の長椅子に座りしばし至福の時間を楽しむ。時計は11時10分を指していた。頂上まで640m、あと20分の辛抱だ。

尾根伝いに行くとやがて三宝荒神堂に着いた。大宝2年(702)に修験者によって開かれ、西国33カ所巡りの前札としての意味合いがあった。境内には大きなトチの木が枝を広げ、かつてここにも茶屋があり餅が名物だったという。11時32分、やっと頂
上に到着。熊野灘が霞んで見えた。なぜかうれしい。昔の旅人も熊野灘を望み「思えば遠くへ来たもんだ」という感慨を持ったに違いない。

そして、これから訪れる「極楽浄土」を頭の中に描いたのだろうか。案内板には「冬場、北東の海面に富士山が現れ る」とあった。ゆっくりしたかったのだが、下方から霧が湧いてきているので、休むことなく、11時36分に山を下ることにした。

峠から三木里への道は江戸道と明治道の二つがある。江戸道には紀州藩埋蔵金の隠 し場所があり「大晦日の満月の夜には黄金が輝く」という伝説が流布されたらしい。

江戸道は荒れていると聞いていたので、明治道を通ることにした。峠からの下りの道は水分を含んだ枯れ葉が古道を覆い、昼なお暗く、今でも追いはぎが出そうな雰囲気が漂っていた。辺りは尾鷲の花であるヤブツバキ林だ。しばらく歩くと苔むした石畳に出た。出発の前日まで熊野は大雨だったせいで、苔むした石畳は不気味な美しさでいっぱいだった。が、あまりにもよく滑るので緊張の連続だった。 10回ひっくり返りそうになり、1回どすんと尻餅をついた。

江戸時代に出版された「西国三十三所名所図会」には「上がり五十町、下り四十五町。
山路険阻にして、いたって難所なり。(中略)杖をつき過つときは必ず転倒す。下りを慎むべし」の記述がある。八鬼山越えをするときのポイントは下りで、そのためにはシューズの底に気を配った方がいいだろう。

下りの道は上りと比べ道標が少なくしばしば不安になった。さらに悪いことに、大雨のせいで小川に支流ができ古道を寸断し古道の上を水が流れたりしていた。さら に朽ちた木が倒れ道を塞いでいる。私は2回道に迷って、13時16分やっと道標に目的地の三木里の地名が現れた。林道が終わりアスファルトの道となり、集落が現れてきた。風が潮の匂いを運んでくる。
やった!と心の中で叫んだ。正面に広がる熊野灘に思わず拝礼。目的の三木里駅まで4時間半の行程だった。

駅のベンチで列車を待ちながら、私は登り口にあった尾鷲節の石碑を思い出していた。「鍬でならして通わせる」という歌詞の心を本当に理解できたような気がした。 八鬼山峠の険しい古道を歩いた古今東西の旅人たち。その気持ちを代弁したものであると確信した。

トロッコで行く湯ノ口温泉

熊野は個性が強い温泉が点在しているところとして有名だが、その中でもトロッコで温泉に入りに行くというユニークな湯ノ口温泉を選んだ。ここには「湯元湯ノ口温泉」と平成9年にオープンした瀞流荘(入鹿の湯)の2つの温泉があり、それらはト ロッコで結ばれている。八鬼山越えの疲労は、この2つの温泉で癒そうと思った。新宮からバスで70分というのもありがたい。
この温泉がある紀和町では奈良時代から銅をはじめ金や銀の採掘が行われ、近代に入ると産銅量では国内屈指の鉱山として知られていた。町には立派な鉱山資料館がある。
さて投宿した瀞流荘は北山川に沿って立てられた清潔な旅館だった。ロビーでパンフレットを探していると「イルカ・ボーズ」と書かれた資料が置かれていた。イルカ・ボーイズ? さっそく副支配人の岡本弘に聞いてみた。

「この辺は入鹿と呼ばれていまして、イルカ・ボーイズとは戦時中に紀和町の鉱山に捕虜として連れてこられたイギリス兵の総称です」
第2時世界大戦中、300人のイギリス軍捕虜がビルマ(現ミャンマー)とタイをつなぐ泰麺鉄道の工事に従事した。それは映画「戦争に架ける橋」として世界的に有名になったからご存知の方も多いだろう「昭和19年、その捕虜たち300名がシンガポー
ル経由でこの紀和町に配置されたんですわ。板谷鉱山の裏の収容所に入れられ、鉱山での選鉱や開墾などの仕事をしたという話ですよ」

現在、イギリスから元捕虜やその家族らが紀和町を訪れ、姉妹都市のような友好関係を築き始めている。第2次世界大戦の隠れたエピソードが熊野山中にあるとは、実際驚いた。

さて温泉タイムである。まずトロッコに乗って「湯元 湯ノ口温泉」に向かった。 「昭和53年に鉱山が閉鎖するまで使っていたトロッコです。車輪が小さいからのう、よく揺れます」と運転士の吉田さん。わずか8分で温泉駅に到着した。

以前はここから4kmも奥まで通じていたという。湯ノ口温泉の歴史は古く、今から70年前後醍醐天皇がこの周辺の金山発掘をしたときに発見されたという。温泉は44度Cと熱く、お 湯に力があるような気がした。体の中から疲れがお湯に溶け込んでい
気分。こ筋肉痛や関節のこわばりに聞くという。これで脚の痛みは解消されるだろう。

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