森本剛史の世界紀行~⑩土着の香り、南イタリア紀行

■アッピア街道周辺に点在する~実にユニークで魅力的な小都市■
「すべての道はローマに通ず」という言葉があるが、ローマ帝国時代、ローマを起点にイタリア国内はもとより近隣の国まで軍用道路が張り巡らされた。

このアッピア街道もそのひとつ。紀元前312年、執政官であったアッピウス・クラウディウスによって建造されたので、この名が付いた。このローマ最古の軍用道路は、ローマからイタリアの南部を横断し、半島東南端のブリンディシまで伸びることとなった。全長は約540キロもある。

私たちは、ナポリからバシリカータ州を経てプーリア州へと向かった。カラカサ松が続くアッピア街道の両側には、アーチを描く水道橋や、殉教したキリスト教徒たちを葬ったカタコンベなどの廃墟が点在し、古代ローマの面影が漂っている。曲がりくねっている道が多いが、車は快適に飛ばした。時々車窓に現れる“Via Appia”というマイル・ストーンを見て、何度ハッとさせられたことだろう。今我々は2000年前の街道を走っているのだ! 標識を眺めるたびに現在と過去が交錯した。

それほど古代ローマの土木技術には素晴らしいものがあった。

その歴史の道に重ね合わせるように、南イタリアのバシリカータとプーリアの両州には実に魅力的な小都市が点在している。この辺りはイタリアで“長靴の踵”と呼ばれ、その名の通りアドリア海とイオニア海に大きく付きだした踵に位置している。

その地理的条件により、この地域は古くからギリシアや東方世界とのつながりがあった。また、北ヨーロッパを含むさまざまな民族も、この地に海と陸の両方から侵入し、固有の文化を持ち込み、それを残して去っていく。2000年以上にわたる、この繰り返しの過程において、地理的にきわめて狭いエリアにかかわらず、隣り合わせに全く異なる形態と空間を持つ都市が生まれ、共存することとなった。

その代表的な都市が、先史時代の穴居の伝統を現在に伝えるマテーラと、白い円錐形ドーム住宅が密集するアルベロベッロである。世界遺産に登録されたこれら2都市を紹介する。

とんがり屋根の家が続く街並み
南イタリアの最南端プーリア州の丘陵地帯をドライブしていたら、オリーブやぶどうの畑の中に、あるいは埃っぽい街道のそばに、白く輝くとんがり屋根の可愛い家を見つけた。石垣で囲まれた畑の中にひとつづつ点在していて、なんともひょうきんな風景が続く。これがプーリア州独特の住居で、屋根がひとつで部屋がひとつの家をトゥルッロと呼ぶ。

結婚したり子供が生まれたりして家族が増えると、建て増しするのでトゥルッリ(複数形)と名付けられる。これらの家々は強烈な日差しから体を守るためのシェルターであると同時に、農民たちの拠点であった。

現在の住宅はもちろん、伝統的な日本の木造民家でさえ、材料は単一ではない。ところが、トゥルッロがユニークなのはすべて石灰岩の単一材料で造られていることである。

この地区の治下にはに石灰岩の層があり、建築のいい材料となる。それらはさまざまな厚さに剥がすことができるので、村人はそれらを切り出し、3種類の異なる形の組積部材を作り上げた。切石、スレート状石片、砕石。たったこれだけの材料で、モルタルや漆喰を使わずに積み上げて住居を造った。

アルベルベッロはそのトゥルッリが集合した町である。奇妙に聞こえるこの地名は、イタリア語のアルベロ(木)とベッロ(美しい)を起源としている。

旧市街のモンティ地区は町の南に位置し、最も大きなトゥルッリ・エリアである。ガイドブックなどでよく紹介される観光スポット。細い路地の両側にはびっしりとお土産屋のトゥルッリが軒を並べていて、原宿の竹下通りという雰囲気で、観光客がたくさん行き来していた。

通りを歩いてみると、同じような形に見えるトゥルッロだが、ドームのてっぺんが尖っていたり丸くなっていたり、それぞれに個性があり。屋根の頂上には、三角形や円盤型、ピラミッド型の不思議な装飾が付けられている。

さらに面白いのは、屋根に描かれている不思議なマークだ。月や星のマーク、逆卍型、三角、雄と雌のマーク、ハートが矢で射貫かれたものがある。このような装飾とマークは、魔除けや太陽信仰、占星術などの宗教的な意味を持っていると考えられているが、詳しくはわかっていない。

私たちはもっと生活感のあるトゥルッリが見たくてポポロ広場の東側にあるアイア・ピッコラ地区に向かった。この名前は「小さな麦打ち場」という意味で、自然に集まってきた農村集落の意味合いが強いエリアである。なだらかな坂が続くこの地区には400のトゥルッリがあり、ここには1500人を収容できるという。

このトゥルッリ15世紀のものだそうで、お土産屋は1軒もないし、ひとりの観光客にも会わなかった。アルベロベッロに行ったら、モンティ地区散策の後、ぜひこの地区を訪れてほしい。実際にのんびりと洗濯をしているおばあちゃん、自転車を修理しているおじいちゃんがいて、いかにも平和な世界が広がっていた。

通りで知りあった女性に、図々しくも部屋を見せてくれないかとお願いしてみると、いとも簡単に承諾してくれた。1階が居間と寝室になっていて、階段を上がったところが倉庫になっていた。小さな空間を有効に使っているなと思った。

アルベロベッロには約1000軒のトゥルッリが残っていて、現在も住居として使われているのが30パーセント、あとの30パーセントはお土産屋などに利用され、残りの40パーセントには人が住んでいなくて放置されているという。

アルベロベッロニは、壁を共有し、隙間なく連続するトゥルッリが不思議な空間を作っていた。異常繁殖したキノコの群れに占拠されているようだ。別の世界へワープしてしまったような気分にさせられた。南イタリアの不思議空間ひとつである。

2000年におよぶ歴史を誇る~巨大なマテーラの洞窟都市
国道7号線を南下して、南イタリアの内陸都市マテーラに到着したのは遅い午後であった。町の中心地を走るリドーラ通りを少し南に歩き、博物館を過ぎたところに小さな展望台があった。目の前にぱっと広がったのは茶の岩塊の世界! 谷底からせり上がってきたかのような巨大な茶色の住宅群だった。

山の斜面に造られた住居の複雑な形態が一丸となり、これがマテーラのサッソと呼ばれる洞窟住居である。複雑な住居の形態がひとつにまとまり、大きな存在感をもって迫ってくる。それは巨大な昆虫をも連想させ、教会の鐘楼は角のように見えた。

しばらく眺めていると、だんだんと太陽の光が弱くなってくる。四角い窓に太陽がスポットライトのように当たり、そこだけが浮いたように見えた。いくつかの住居には電気が点き始た。無機質な世界に花が咲いたようで、ちょっとほっとした気分になった。ここは近代までマテーラの農民の生活空間だった。

地中海を取り巻く地域には、先史以来、洞窟に住み、集落を作る文化があった。トルコのカッパドキアやエジプトのシワなどが有名だが、その中で最も長期にわたって洞窟住居を進化させ、都市を形成していったのが、この南イタリアの内陸都市マテーラである。

新石器時代から19世紀初頭まで2000年以上の間、少しずつ洞窟の形式、類型を進化させ、高密度に集合させていったマテーラの例は地中海沿岸では珍しい。

新石器時代に、このサッソに人が住み着き始めた。街を流れるグラヴィーナ川周辺の岩場には浸食作用でできた洞窟が点在していたからだ。古代ギリシア時代になると、南イタリアは広範囲にわたって大ギリシア圏(マグナ・グラエキア)と呼ばれるギリシアの支配下に入る。マテーラという地名は近くにあった代表的な植民地のメタポントゥムとエラクレアの住民が移住してきたことから、頭文字をとってマテーラとなったといわれている。

その後8世紀に入り、ギリシアからの修道僧が大挙して移住してくる。彼らは自然の洞窟を利用するだけではなく、規則的な形の人工の洞窟を掘り始め、修道院を造っていった。聖人のフレスコ画も描かれた。

15世紀までには、穴の前面に切石を積み、半分は洞窟、半分は建築部分にすることによって、内部空間を拡張させていった。時代を経るたびに洞窟部分より建造部分の割合の方が大きくなっていく。この頃マテーラは商業と農業が繁盛し、人口が7000から12000に急増した。しかし繁栄の結果貧富の差が生まれ、すなわち貧しいものは洞窟住居に中上流階級は地上の建造住宅にと住み分けが進んだ。

巨大な岩塊の遺跡の中で、今でも生活している人がいる
17世紀になると、サッソの背後に広がる平坦な高台に裕福な階層が大規模な住宅を建築し始めたのである。サッソの地層は4層に分かれるが、これはその一番上の部分に当たる。こうしてマテーラの都市構造は二極化し、行政の中心は高台へと移っていった。高台の市街地が発展する一方、サッソには農民や労働者が取り残された。その頃3300の洞窟住居には2万もの人が住んでいたという。その後、サッソの住民は強制的に郊外の住宅に移り住まされ、サッソは完全廃墟と化した。

近年、マテーラの市当局は、住民不在によるサッソの荒廃が貴重な都市遺産の損失になるということに気づき、サッソを再生させて再び住民を呼び戻す政策を進めている。

1993年に世界文化遺産に登録された。広大な遺跡に人びとが住んでいる、というのがこの街の興味深いところである

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