森本剛史の世界紀行~⑮熊野古道1 中辺路編

現在「熊野古道」と一般的に呼ばれるのは中辺路ルートのことで、田辺市郊外の滝尻王子から熊野本宮大社までの約40km、1泊2泊の行程。急峻な坂あり、なだらかな路 あり、清流沿いの路ありと変化に富んでいる。この旅の強力な助っ人は
「熊野古道を たずねて」のロードマップ。各王子間の距離や歩行時間、高低差などが詳細に記され> ている。滝尻王子近くの熊野古道館や役所、商店などで無料で手に入るので一冊手に入れたい。

今回は手軽に熊野古道を体験し、熊野の秘湯を堪能するというテーマで、中辺路中間点の小広王子から近露王子までを歩くことにした。距離は6.3km、約2時間30分のコースで、初心者向きのハイキングコースである。
まず、JR紀伊田辺駅から本宮行きの龍神バスに乗った。約1時間後小広王子入口到着。バス停から左の坂道を5分間登っていくと旧道に出た。そこを右折し800m進むと小広王子の看板が見えた。今回のコースは、ここから滝尻王子方面に戻ることになる。
小広王子周辺はもともとは峠で、小広峠と呼ばれている。地元の人に聞くと、現在の峠は明治以降の道路補修で掘り下げられたので、元の峠に比べたらかなり低くなっている、とのことだった。小広峠から中ノ川王子への道は緩やかな下り。約30分で中ノ川王子に着いた。向こうに見える山には霧が立ち、緑のグラデーションが美しい。
下りの道は砂利を敷き詰め、整備されているので歩きやすいが、山間の険しい古道を想像してきた身にはちょいと楽すぎる感じがした。「とがの木茶屋」に到着すると、まるで時代劇のセットに迷いこんだような古風な家が続いていた。

入口には山桜が大きな枝を広げている。これは「秀衡桜」と呼ばれ、その奥に立つ桜王子の名の由来になった名木である。継桜王子は古道のハイライトひとつで、緑あふれる山に囲まれた深い谷間を眺めると深呼吸がしたくなった。
秀衡桜と呼ばれるようになったのは、次のような奇怪な伝説が介在している。昔、奥州の藤原秀衡夫妻が熊野詣をした際、滝尻王子近くの岩屋で出産。その子を残してこの地に赴き、杖にしていた桜の木を地面に突き立てた。「我が子が死ぬのであればこの桜も枯れるであろう。熊野権現の御加護がありもし生命あれば、桜は枯れないだろう」と我が子の成長を祈った。

熊野三山にお参りした帰りにその木を見ると生き生きと咲き誇っている。子どもを置いてきた岩屋に戻ると、幼児は元気に育っていたと いう。この伝説は、我が子を捨ててでも熊野の神に会いに行くという激しい熊野信仰を意味していると考えられる。ここに王子社が設けられたとき、その名を継桜王子と したのは、熊野信仰に熱心だった秀衡に結びつけられたのだろう。

この継桜王子の脇には大きな杉が9本並んでいる。「野中の一方杉」と呼ばれ、日差しの関係からか那智大社のある南の方向にだけ長い枝が伸びている不思議な木だ。この木の下を通った上皇や庶民たちの姿を静かに見つめてきたのだろう。またその木の下の道路には日本名水百選のひとつ「野中の清水」もある。

ここから、比曽原王子を通り近露王子までは約1時間の行程。近露王子は日置川のそばにあった。ここで2時間30分のハイキングの旅は終了だが、まだ歩き足らないと いう人は、その先の(滝尻王子寄り)の箸折峠に向かうといいだろう。箸折峠には花山院が納経したといわれる宝篋印塔と牛馬童子像がひっそりと佇んでいる。牛馬童子像は高さ約50cm、花山院の旅姿を模したものといわれている。ちょっぴり寂しそうな童顔を見ると、孤独に耐える花山院と重なって見えた。

町の中心「井谷酒店」

どんな小さな町や村に行っても、よろず屋があり、そこが地元の人たちの社交場であり、情報の交換場所である。近露ではバス停になっている井谷酒店がその典型的な店であろう。2時間30分歩きペットボトルの水も無くなったので、この店に立ち寄った。

酒が主要な商品だが、生鮮食料品、蚊取線香や電池などの日用雑貨も置いている。棚に吊るした商品の麦わら帽子が風に揺れている。笑顔で出迎えてくれたのは店主の井谷宗司さん。80年続く商店の3代目だ。「どこから来たん? 東京?そりゃえらい遠いところからよう来てくれました。熊野のええとこ見て楽しんで帰って下さい」。

初めて会ったとは思えないほど、会話が進む。「熊野は山はそんなに高くないけど、山が深いし怖いで。以前、山にぜんまい取りに行ったら、何や変な気分になってきてね。自分の居場所がわからなくなってきて焦り始めたわけよ。落ち着けと自分に言い聞かせて、谷に降り川下に向かって歩いて、事無きを得ましたが。焦りましたで」

そばにいた田中老人は「そりゃダルに付かれたんや。突然来るらしいで」と話に入ってきた。「この辺で、ダルとは疲労困憊のことです。疲れたことを方言でメカイダルイモと言うから、それから来たんやろな。この辺の山仕事する人は、ダルに疲れた時のために弁当は必ず半分残します」。しかし、本宮ではダルに関して別の意見も聞いた。すなわちダルとは山道で餓死した無縁仏の亡霊のことらしい。こちらの方が不気味で熊野らしい気がする。

だから井谷さんは都会から熊野古道にくる旅行者にはいつも「熊野の山は深い。も し道に迷ったら谷川に降り下流に向かって歩けとアドバイスしているそうだ。 近露 には上小野温泉「ひすいの湯」という小さな共同温泉がある。日置川の河原そばに立っていて、窓からは清流がよく見渡せる。ここで働いていた田中幸子さんに話を聞いた。彼女は温泉好きが高じてこの町に8年前大阪から移り住んだ人だ。

「近露は盆地ですけど、開けていて明るいでしょ。まずそれに惚れました。あちこちの温泉に入りましたけど、ここのお湯に惚れましたわ。弱アルカリ性低張性低温泉で、加熱して42度になっています。アトピーや切り傷や慢性皮膚炎によく効きますね。このお湯で野菜をゆでると、すぐに柔らかくなり、味もおいしくなるります。豆腐を茹でてもおいしいわ」と“温泉鍋”のPR。熊野名物の茶がゆもこの湯で焚くとおいしくなるそうだ。

川が露天風呂になる「仙人風呂」

井岡商店の皆さんに見送られて、17時22分本宮行きの最終バスで川湯温泉に向かった。国道311号の渡瀬トンネルを抜けると、大塔川からあちこちに子供の産毛のような湯気が立ち上っていた。まさに読んで字の如くである。河原約100mにわたって温泉が湧きだし、湯治客はスコップで玉砂利の河原を掘り起こせば、どこでも即席の露天風呂となる。

川の水量が少なくなる11月~2月にかけては、川をせき止めて「仙人風呂」が造られ、一度に1000人も入れるという言葉にも掛けた大露天風呂だ。熊野の深い森に囲まれ、星空を眺めながらの野趣あふるる入浴。水底から湧き上がったお湯が背中を駆け登っていく。ぬる目の湯が体を優しく包んでくれ「遠いところからごくろうさん」とささやいてくれるようであった。泉質はアルカリ性単純温泉で、神経痛や糖尿病によく効くそうだ。

その仙人風呂の前に立つ老舗の亀屋旅館に宿泊した。創業は140年前で、現在8代目が修業中という。昭和初期に建てられた古風な木造建築も現存し創業当時の風情が今も残っており、目の前の大塔川には亀屋専属の露天風呂もある。女将さんの小淵恵美さんに話を聞いた。

「熊野古道を歩いて、うちに宿泊される方は多いですよ。こないだ見えた関西の熟年カップルは、中辺路町側の熊野古道には道標がきちんと付けられているのに、本宮に入るとその数が少なくなり、そのかわり『ほんまもんのロケ地』という看板が目立ちすぎて残念やわ、と言うてましたわ」

翌日、女将に見送られバスで本宮前で下車、伏拝王子に向かった。片道約1時間の行程だという。歩き始めると茶畑の中に桃源郷のよう集落が広がっている。軒下に大根が吊るされ、その背後に美しい果無山脈が横たわっている。

伏拝王子碑は一段と高いところにあり、そこから幾重にも連なる山並みの向こうの谷の間に黒々とした林が望まれた。かつての熊野本宮大社があった中州、大斎原である。伝承では社殿創建は約2020年前。しかし明治22年の大水害で社殿は流失し、その後現在の山麓の台地に立て替えられた。

大斎原の向こうには現在の本宮大社がある。 今まで足元しか見ないで喘ぎながら歩いてきた人が、この王子に参拝して目を上げたら、かすかに熊野大社が見える。感動のあまり文字通り伏して拝んだことだろう。

何と素晴らしいネーミングだろう。古代の旅人の感涙する姿が瞼に浮かんでくる。

伏拝王子には和泉式部供養塔もあった。熊野詣に来た和泉式部は伏拝まで来たときに、にわかに月の障りとなった。これでは本宮参拝もできないと次の一首を詠んだ。

晴やらぬ身の浮雲のたなびきて
月のさわりとなるぞかなしき

するとその夜、夢に熊野権現が現れて、
もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき

とお告げがあり、式部は参詣することができたという。私は井谷商店であった田中老人の一言を思い出していた。

「熊野信仰のええとこは、男女平等やったいうことや。男も女も聖地に詣ることできたんやからね。熊野信仰の原点はそこや」

伏拝王子から引き返し峰づたいの道を下り、田畑を抜けると祓戸王子があった。この王子は本宮大社に最も近い王子で、旅の穢れを浄めるための潔斎所であったという。

本宮大社の一の鳥居をくぐり、「熊野大権現」と墨書された奉納旗が両側でなびいている。129段もの石段を上がると境内に出た。神門の向こうには四社殿が見えた。主神は家津美御子大神(けつみみこのおおかみ)。後ろには神木の杉やヒノキが鬱蒼とのびている。速玉大社の朱色に輝く華麗さを見てきた目には、本宮大社は古色に満ち、しっとりとした雰囲気があたりを包んでいた。

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