森本剛史の世界紀行~④喧騒のホーチミン、哀愁のハノイ
インドシナと中国が出会い、そこにフランスのエスプリが加わった国、ベトナム。建物、料理、雑貨に3つの国のエッセンスが凝縮されている。東南アジア的喧騒を体験したいならホーチミンへ、しっとりとしたフレンチ・コロニアル旅情を味わいたいのならハノイへ。ベトナムの2大都市が持つ表情は、2つの異なった国のような印象を与える。風と光の中で、アオザイの少女たちの優しい眼差しがこっちを見ている。
■偽ジッポーの向こうにベトナムが見える■
「これ、米兵が戦場で使った本物のジッポー、こちらはベトナム製の偽ジッポー。本物は15ドル、偽物は3ドル。どうです?」 ホーチミンシティ(旧サイゴン)の青山通りと呼ばれるドンコイ通りの、とある骨董店の前を通ったときのこと。細長い店の奥から店主が声をかけてきた。店先の縦長のガラスケースには、傷んだジッポーと一緒に本物そっくりのコピー商品が並べられている。
「この偽物、撃ち落とされた米軍の戦闘機の破片で作ったんだ」と店主はウインクしながら説明してくれたが、その真偽のほどはわからなかった。買った偽ジッポーには「朝の死体ほど甘い香りがするものは、この世に存在しない」という、いかにもヤンキー好みの茶化し半分の聖句が彫られていた。かつて記者としてベトナム戦争に立ちあった作家開高健によれば、戦争最盛期のサイゴンには、弾丸よけの呪文の彫り屋が何軒も路上で店を出していたという。
■100年間戦争に明け暮れた国■
ベトナムの歴史を眺めると、中国による長い支配、フランスによる割譲、アメリカによる軍事介入、サイゴン陥落。そして今や世界でも数少ない共産主義のひとつとなり甦った。驚くことに、この国は100年間戦争に明け暮れてきたのである。 アジア最後の「魔都」と呼ばれたサイゴンも、ドイモイ(刷新)政策によっての改革が功を奏し生まれ変わった。経済に明るい見通しが出てきた街には、復興のエネルギーが溢れていた。共産主義特有のあの暗い重苦しく閉鎖的な雰囲気は少ない。殺伐さがないから旅行者でもリラックスできる。むしろ国民全員がお金もうけに突っ走っているようで、どこが共産主義国家だと言いたくなるほどだ。
サイゴン川に沿って延びるトン・ドゥック・タン通りには、国民総暴走族かと思えるほどのホンダ(バイクのことをすべてこう呼ぶ)が、朝から晩まで列をなして走っている。信号機の少ない通りを横断するのは、かなり怖い。フレンチコロニアル風の豪華なホテルも健在で、リノベーションが進んでいる。観光業界も好調で、昨年10月までにベトナムを訪れた観光客は173万人、昨年より17.8%もの伸びを示している。一番多いのは中国人、次いでアメリカ人だ。ドンコイ通りにはおしゃれなブティックやレストランが軒を並べ、買い物をする外国人観光客が行き交い、特に雑貨を探す日本女性の姿が目に付いた。
長い間他国に支配されてきたベトナム。しかし、今や夢を追う未来がある。渾沌の中の繁栄が見え始め、進化を続ける国のエネルギーが伝わってくるようだ。ひとつの偽ジッポーに、長い間歴史に翻弄されてきた者が持つ「したたかさ」が凝縮されている、私はそう思った。
■中国人街、チョロン■
ホーチミンシティ南西にあるチョロン地区。チョロンとはベトナム語で「大きな市場」を意味し、清朝末期に移住してきた中国人によって形成されたチャイナタウンである。その地名がこの街のすべてを物語っているといえるだろう。 現在チョロンはホーチミンシティの第五区となっているが、南ベトナム政府時代にはサイゴンとは別の行政区で、一種の治外法権の中国人街であった。ホーチミンシティからこのエリアに入ると街の物音が大きい、と感じた。一気に漢字の看板が増え、私の目の中に漢字の群れが勢いよく飛び込んでくる。ホーチミン市内とは違う空気観。異なった街の匂い。
聞こえてくる言葉も叫んでいるような中国語だ。チョロンに生まれチョロンに育って中国語だけをしゃべり、ベトナム語を一句も解せず、一生を終える人も多いそうである。 この地の有力華僑であったカク・ダムによって造られたビン・タイ市場の周辺には、ティエン・ハウ寺(天后寺)など中国系の寺が点在している。マルグリット・デュラス原作のフランス映画「愛人/ラマン」の舞台となったところといえば、思い出す人も多いだろう。作家開高健の作品にもこのチョロンがしばしば登場し、特にチョロンの屋台で食べたお粥の話が印象に残っている。
■複雑な中国への思い■
チョロンに中国人が住み着いたのは18世紀後半だが、現在のチョロンの社会の基盤は、中国政府の締めつけを嫌って逃げてきた中国人たちによって作られた。戸籍制度もあいまいだったベトナムに、住み着くのは難しいことではなかったからだ。
ベトナムと中国の関係を見てみると、近代まで隣国中国による侵攻と、それに対する抵抗の歴史であった。中国の南進に対する警戒心は現在でも変わることなく、その歴史は2000年を超えるというから驚いてしまう。しかし文化面においては、儒教の浸透、科挙制度の成立、仏教寺院の建立など中国の影響も強いことは言うまでもない。文化的な親近感と政治的な不信感。これがベトナム人たちが常に抱く中国観だ。
そういう情況の中でのチョロンの中国人たちは、ベトナムにおける経済の実権を握ったが、1975年のサイゴン陥落によって大打撃を受けてしまう。共産主義化に伴い、大きな工場も小さな商店も政府の管理下に置かれてしまったからだ。中越戦争の時には、たくさんの中国人が海外に脱出し、チョロンの中国人社会は火が消えたようになったという。
現在は、息を吹き返し毎日がお祭りのような盛況である。ドイモイ政策で外貨導入が認められると、まず進出してきたのは香港、台湾などの華僑だった。「華僑ネットワーク」が生きていたからだ。ホーチミンシティがかってサイゴンときのような活気に戻ったのは、チョロンが経済発展のスタートを切ったからと言えるだろう。
■フランス風の街並みと瀟洒な建物しっとりとした古都、ハノイ■
ホーチミンシティからハノイに来るとあまりの環境の違いに驚く。私たちがハノイに着いたのは2月末だったが、ホーチミンでは気温33度、ハノイは最高14度という寒さだった。慌てて、ウインドブレーカーを買いに走った。しかしハノイも夏になると、耐えきれないほどの高温多湿になるという。
空港から市内に向かう途中には、水田地帯が広がり、水牛ものんびり草を食んでいる。ノン(三角形の菅笠)を頭に載せた女性が目立ち、ホーチミンではあまり見かけなかったモスグリーンのムゥー(軍隊帽)をかぶった男性がバイクに乗って走っている。
空は薄い墨汁を塗ったかのようにどんよりとしていて、明るく陽気で騒がしいホーチミンとの落差に、本当にここが首都なのかなと思った。しかし紅河(ホン川)に架かる長いロン・ビエン橋を渡って市内に入ると、そのしっとりとした佇まいに心が開き始める。
緑濃い街路樹、市のあちこちに点在する湖の豊かな空間、仏領インドシナ時代から残るコロニアル様式の建物。建ち並ぶフランス風の洋館は鈍く黄色に輝き、緑色の窓枠と調和している。建物の周りに張られたアラベスク模様に鉄製の格子がお洒落だ。時々赤地に黄色い星が描かれた国旗を見ることもある。町全体に凛とした気品が漂い、旅人の心を包んでくれる優雅さに満ちていた。美しい自然と1000年の歴史に彩られたハノイこそ「プチ・パリ」と呼ばれるのに相応しいだろう。
しかし、町全体がミニ・パリばかりではない。ホアンキエム湖の北に位置する「36通り」と呼ばれる旧市街に行くと、ハノイの土着の顔を垣間見ることができる。36通りは、漢方薬、衣料、玩具、仏具、墓石、花火、食料といった具合に通りごとに同じ商店が固まっていて、細かな路地はまるで迷宮のようだ。
ハノイにリ(李)王朝が城郭を築き、都を開いたのは11世紀初頭。この王朝への貢ぎ物を作るために村々から集められた職人たちは、職業別に通りごとに分れて住んだ。その通りが36あるので、この名が付いたという。
その36通りで、早朝一軒の店に入った。ベトナムでよく見かける簡易食堂だ。そこで食べたバゲットサンドは絶品だった。フランスの影響が強いベトナムでは、フランスパンのレベルも高く庶民の味として知られている。
最も人気があるのはバインミー・ティエットと呼ばれるベトナム版バゲットサンドだ。一見すると普通のナゲットなのだが、そこは食通の国ならではの隠し味を効かせている。香ばしいフランスパンの中に、レバーペーストを塗り、ハム、キュウリや香菜を挟み、最後に細かく砕いた干し魚とヌックマム(魚醤)を振りかける。東洋と西洋の不思議なコラボレーションが口の中で広がった。
窓の外には、絹のような小雨が降っていた。菅笠を被り、天秤棒を担いだ女性が忙しく行き交っていた。
■龍が生み出した芸術品、ハロン湾■
ハノイから東へ160キロ、国道1号線から5号線に入った。めざすハロン湾は、中国国境に近いベトナム北東部に位置している。道の両側に広がる田園地帯を見ながら走ること3時間半、南シナ海が見えてきた。
ニョキニョキと突き出た幾重にも重なった大小の奇岩群が車窓いっぱいに広がっている。よく目を凝らすと、それぞれの岩肌に濃淡があり、それが遠近感を強調し風景に奥行きを与えているように感じた。霞みの中にそそり立つ奇岩群、まさに水墨画の世界。「海の桂林」と呼ぶのはぴったりだ。
この地域がハロン湾である。カトリーヌ・ドヌーブ主演のフランス映画「インドシナ」の後半部分にも登場するので、ご存知の方も多いだろう。北部ベトナムの屈指の、否、ベトナムが世界に誇る景勝地である。1994年、世界遺産に登録された。
海に浮かぶ奇岩の数は約2000。石灰岩室の島には洞窟や鍾乳洞がいくつもある。ハロン湾クルーズでは、龍の形をした島、亀の形をした岩、険しく切り立った絶壁などの間を縫うように蛇行していく。時々漁船が近寄ってきて、採れたばかりの魚介類を売りに来る。
なんともゆうたりとした時間が船上を流れていく。
地名のハロンを漢字で書くと「下龍」。龍が降りるという意味で、こんな伝説に基づいている。その昔、外敵の侵攻に苦しめられていたこの地に、怒った龍の親子が舞い降り、侵略者に襲いかかり、人々を守った。その時吹きだした宝玉が奇岩になり、それ以来奇岩のおかげで外敵から侵略されることはなくなったという。
千年におよぶ中国支配から独立した後も、ベトナムはたび重なる中国の侵略を受け、その都度ハロン湾は戦場と化した。その苦難の歴史、中国に対するベトナム人の心情がこの伝説に込められている、と言っていいだろう。
では「昇龍」とはどこかといえば、ハノイの旧市街「36通り」と呼ばれるところだ。ハノイからハロン湾へ向かうベクトルは、「龍が昇る地」から「龍が降りる地」への壮大なる旅である。
■食材が豊富な巨大市場にベトナム料理の奥深さを見る■
市場見学はエキサイティングだ。どういう農作物が並べられているか、どんな魚が売られているか、どんな国民的調味料があるかなど、そしてそれらの値段を知ることによって、その国の食生活事情から経済の動向まで教えられることが多いからだ。
特にベトナムの旅では市場巡りは欠かせない。あまりに膨大な商品アイテムに目移りするどころかふらふらになるぐらい、ベトナムの市場は規模、雰囲気ともにパワフルである。
ハノイには、ホアン・キエム湖の北側に街で一番大きいドン・スアン市場があり、モダンな3階建ての建物の中には、肉、魚介類、野菜、果物、香辛料、調味料から衣類、雑貨、工芸品、漢方薬、あるいは小鳥や猫、犬、蛇などの動物まで、あらゆるものが並べられている。湖の西側に位置するハンザ市場は、食料品も売られているが、ここは衣類や革製品が多い。
ホーチミンシティには、フランス人によって造られたベン・タイン、チョロンにはビン・タイという体育館のような巨大な市場がある。市場はどこにいっても、混雑、猥雑、喧騒、豊潤、臭気、新鮮、交渉、格安といった漢字が漂っているようで、ワイルドな光景に出会うことができる。
そんな豊穰な土地で採れたものを食材にする国に不味いものはない。ベトナム料理はまず中国に影響を受け、その後フランスの美食感覚を取り入れた。パワフルなインドネシアと繊細なフランスがお皿の上で出会ったわけだ。そして隠し味のヌックマム(魚醤)がある。これがないとベトナム料理とはいえない国民的万能調味料。匂いはクサヤ風で、その独特な香りに最初は腰が引けてしまうが、一度味あうと物足りなさを感じるほどおいしい.
ハノイでは、いろいろなシーフードを賞味した。特にフランス風のコロニアル建築がお洒落な「ナム・フン」が印象に残った。シラク大統領も迎えたことがある一級のレストランだ。チキンをバナナの皮で包んだもの、カニを丸ごと挙げてニンニクと塩で炒めた「クア・ラン・ムーイ」。肉身はさくさくとしていて食感もいい。そして揚げ春巻きもおいしかった。ランチのコースは15ドルと安い。
各国外交官や駐在員も多いハノイ。レストランも本格派のフレンチから洗練されたベトナム料理まで豊富に揃っている。そして屋台の庶民的な麺(フォー)やバゲットサンドまで、ベトナムの味覚世界は、広く奥深い。