森本剛史の世界紀行~⑧新石器時代までさかのぼれる悠久の歴史、マルタ島

長靴の形をしたイタリアの靴先で、蹴飛ばされた三角形の島がシチリアならば、マルタ島はシチリアから弾け飛んだ破片だと、よく例えられる。シチリアの南93キロ、北アフリカの沖合230キロ、紺碧の地中海に浮かぶ小さな島だ。

マルタ共和国は本島であるマルタ島、ゴゾ島、コミノ島などで構成され、その総面積は佐渡ヶ島の半分弱、総人口37万人の9割は敬虔なカトリック教徒である。ヨーロッパ人にとっては地中海の珠玉のリゾートとして知られ、特に英国のロイヤルファミリーの保養地としても有名だ。

地中海航路の要衝にあるマルタ島。新石器時代の昔からさまざまな民族と文明が交錯し、重層的な歴史が刻まれてきた。マルタという国名はフェニキア語で「避難する場所」を意味するそうだ。首都バレッタ周辺の複雑な深い入り江は、海の民であるフェニキア人にとって海が荒れたときや海賊から逃げ込める格好の避難場所であったのだろう。

■世界文化遺産に指定された強固な要塞都市、バレッタ ■
マルタ島の第一印象はヨーロッパとアラブ的世界が渾然一体となっている、というものだった。かつて英国が164年間もこの島を支配していた時代もあり、英語が公用語の国なので英語の語学学校も多く、今や“地中海で英語を学ぼう”と世界中からたくさんの学生がやってくるご時勢。人々の顔もイタリア系、アラブ系、イギリス系と変化に富んでいる。だが国民と話をすると「自分たちはヨーロッパ人」だという強い意識が感じられた。

小さな地図ではゴマ粒ほどのこんな島が、世界史の表舞台に躍り出て一躍スポットライトを浴びたことがある。聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の移住により黄金期を迎えた中世の頃だ。元々聖ヨハネ騎士団の任務は十字軍の負傷者や病人の看護などであったが、やがて軍事的性格も強くなっていった。エルサレムでイスラムの勢力が増すにつれ、そこを追われた騎士団はギリシアのロードス島に移るが、この一大拠点もオスマン帝国の侵攻を受けてしまう。さ迷った騎士団が新しい永住地として選んだのがこのマルタだった。

騎士団はトルコ軍の来襲に備えて、岩だらけの島を要塞化していった。シベラス半島の岩塊の上に当時の最新の技術を使い要塞、病院、教会、博物館を造りあげていく。バレッタは、海に突き出た碁盤の目状に構築された起伏の多い計画都市となった。それと同時に、ヨーロッパ貴族の集団であった騎士団はマルタに文化、芸術の花を咲かせていった。

まさに彼らは、このヨーロッパの辺境に近代文明を移植したわけである。現存する騎士団長の宮殿や病院、聖ヨハネ大聖堂などの建築物を眺めると、当時の文化水準の高さを改めて思い知らせてくれるだろう。バレッタが興味深いのは、中世の城塞都市がそのまま現在にまで保存されていること。1980年にはバレッタの街全体が世界文化遺産に指定された。

マルタ本島はバレッタを中心に海岸線にそってリゾートがいくつも点在している。そのなかでもスリーマやサンジュリアンには豪華なホテルをはじめ、ファッショナブルなレストラン、パブなどが軒を並べ、地中海のリゾート地らしい雰囲気にあふれている。

一方マルタ島のほぼ中心、小高い丘の上に開けたムディーナは、これらのリゾートとは対照的な町だ。中世には首都が置かれたところで、迷路のように入り組んだ通りには、石灰岩でできた後期バロック様式の建物が静かに佇んでいる。細い通りの角を曲がるたびに中世にタイムスリップしていくような気分になった。現在も人々が生活しているのだが、ひっそりとした雰囲気が漂っている。別名「サイレント・シティ(無言の町)」と言われるゆえんだ。

日本人にとってマルタは距離的にも文化的にも遠い存在だったが、最近この美しい島を訪れる日本人観光客も増加している。昨年の日本人訪問者数は8000人と、倍加した。地中海の海の色と澄み切った空の青さを堪能できること、温暖で快適な地中海性気候、点在する歴史的遺産と、陽気で親切な国民性、治安の良さが、日本人に受け入れられ始めているのだろう。最近は南イタリアのツアーに組み込まれることが多くなった。ただいま人気上昇中の「英語が通ずる地中海の島」である。

■「オデッセイ」に登場する伝説の島
遠来の旅行者を温かく迎える ゴゾ島民のホスピタリティ■

ゴゾ島はマルタ本島の北西6キロに浮かぶ緑の多い牧歌的な島で、面積は香港島とほぼ同じ。島へのアクセスは定期フェリーが通じている。

私たちは、マルタ本島北西に位置するチェルケウワから出港、約1時間でゴゾ島の玄関口であるイムジャール港に着いた。港に浮かぶカラフルな漁船。起伏する丘に目をやると、白っぽい石垣に囲まれた段々畑が広がっている。確かに「マルタの穀物倉」といわれるほど畑が多い。どの丘のてっぺんにも石造りの集落があり、丘の上にはネオゴシックの教会がそびえている。今から1000年以上も前にアラビア人によって始められたこの独特の段々畑は遠近感を強調し、島の風景に奥行きと変化を付けているようだ。

イムジャール港から車で島の中央部に位置するビクトリアに向かう途中、前方の小高い丘に大きな茶色の城塞(チッタデル)が現れた。一見アラブの城のような感じがした。「グラン・カステロ」とも呼ばれるゴゾ島のシンボル的存在で、もともとは島に侵略してくる海賊たちから島民を守るための要塞であった。現在のような形になったのは、1565年ヨハネ騎士団がトルコ軍との過酷な戦い(グレート・シーズ)に勝利をおさめた以後のことで、トルコ軍の再度の攻撃に備えてチタデルに高い壁を作ったからである。

この町がビクトリアと呼ばれるようになったのは1897年に英国のビクトリア女王の即位25年を記念してのこと。1814年よりマルタは英国領だったからだ。それ以前はアラビア語で「郊外」を意味するラバトと呼ばれていた。町での最大の見どころはチッタデル内に建つ大聖堂。1693年の大地震によって崩壊し、新しく建てられたものでシンプルなバロック様式が美しい。

設計当初はドームが造られる予定だったが、経済的理由により断念せざるを得なかった。そこでイタリアのメッシーナの画家アントニオ・マヌエルは、だまし絵的手法で、うまく遠近法を使いあたかもドームがあるように描いた。ガイドに教えてもらわなければ分からないぐらい見事な出来栄えであった。

また、市内には聖ジェームス教会、聖オーガスティン教会などいくつもの教会が点在している。特に有名なのが聖ジョージ教会(バシリカ)で、建物は言うに及ばずドームや天井の壁画が素晴らしい。

ビクトリアから島の北東に位置するサグラに車を進めた。この高原には、紀元前3600年ごろと推定される巨石を積み上げたガンティヤ神殿がある。これはエジプトのギザのピラミッドより1000年も昔に建造されたもので、世界の考古学者の注目を集めている。

サグラのさらに北のラムラ湾を見下ろす岩壁にカリプソの洞窟がある。ホメロスの有名な詩「オデッセイア」の中にある話で、ユリシーズ(オデッセウス)がトロイヤの戦いで勝利をおさめて帰路についたとき、疲れを癒すためにゴゾ島に立ち寄った。

そのとき彼は水の妖精であるカリプソの美しさと食べ物の美味しさに魅了され、7年もこの洞窟で生活をしたという。カリプソは、もしユリシーズが自分と一緒にいてくれるならば、永遠の命を保証すると伝えるが、ユリシーズはこの申し出を断り、妻ペネローペののもとへ帰って行ってしまったという伝説である。

ゴゾは素朴で静かで、心からリラックスできる島。マルタに行ったのなら、ぜひゴゾ島に足を伸ばしてほしい。マルタのもうひとつの側面が見えてくるはずだ。この島に来ると旅人の多くは、1日でも長く滞在をのばしたい気分にさせられるだろう。まるで「ユリシーズ」のように。

■エジプトのピラミッドより古い巨石神殿が現存するミステリアスなマルタ島■

マルタに人が住み始めたのは新石器時代、つまり紀元前5000年頃にまでさかのぼることができる。約100キロ北に位置するシチリアの農民たちが丸木舟などでマルタにやって来て、洞窟などに住み着いたのだろう。

続いて紀元前3500年頃に、第二波の民族移動があり、現存するマルタの巨石文化の基礎を築いた。つい最近まで世界最古の建造物はエジプトのピラミッドであると考えられていたが、最新の年代測定法でマルタの巨石神殿はギゼーのピラミッドより1000年も古いことがわかった。

そのひとつがゴゾ島中部にあるガンティヤ神殿で、巨大な天然石を積み重ねて造られたこの遺跡は、神殿建築としては世界最古のものといわれている。神殿建設にはサンゴ質の石灰岩の巨石が使われ、外部城壁に用いられた石材は高さが6メートル、重さが数トンにおよぶという巨大なものだ。

現代の建築技術を用いても決して簡単に移動させることは難しく、6000年近くも昔い時代に、地中海の孤島で、いったいどのようにして巨石を移動させたり、持ち上げたのか、今もって謎に包まれている。

現在までにマルタで発掘された神殿の数は約30もあり,ガンティヤ神殿のほかに5つの神殿が世界遺産に指定されている。最近の研究では生け贄と豊穰の祭礼の場として建造されたであろうと考えられている。

マルタ島南部のハジャー・イム神殿にはマルタで一番大きな20トンもの巨石が使われているし、巨石間がぴったりと接合され、装飾模様も彫刻されている。また、この神殿からは有名な「マルタ・ビーナス」の像が発掘された。首の付け根に小さな穴があいており、ここに頭部を差し込んだり、あるいは差し替えて飾っただろうと推測されている。

こうした神殿の調査の結果、新石器時代のマルタ文明が地中海文明の源泉であるという可能性が高くなってきている。マルタこそ世界最古の巨石文化の発祥の地ではないかというわけである。だが、これらの巨石文化は紀元前2200年頃突然姿を消してしまうのだ。

また、バレッタの南郊パオラには青銅器時代に造られたと考えられるハル・サファリエニの地下墳墓がある。1902年に偶然に発見されたマルタ島の巨大神殿のひとつで、紀元前2500年頃から何百年にわたって石灰層を硬質な石器で掘って造られ、地下3層の迷宮のような空間に、礼拝堂をはじめ小部屋、通路など38もの石室が建造されている。

残念なことに現在、この墳墓は見ることができない。バレッタの国立考古博物館にはこの墳墓のミニチュア・モデルや出土品が展示されている。モデルを見ても精巧な石造建築だというのがよくわかるだろう。

もうひとつ不思議なのは、島内いたるところにある地面の岩肌に掘られた轍のような溝だ。巨石を運ぶための輸送システムの跡だと考えられている。これらの轍は海のそばの断崖にまで達しており、その続きと同じ轍跡がシチリアや北アフリカにもあるというのだ。

大きな歴史が脈々と刻み込まれたマルタ島。古代史ファンにとっても興味が尽きない、ミステリアスな島である。

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