伊勢街道めぐり旅 1 .~お伊勢参り

4月のある日、テレビの旅番組を見ていてふと思ったことがある。この歳になるまで伊勢神宮に行ったことがない。思えば関東から故郷・南紀新宮に帰省する時いつも、電車でも車でも、ここから少し左に行けば伊勢神宮だなと何度頭に浮かんだことか。

江戸時代の流行歌に「伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」と謳われたという。日本人なら誰でも一度は行きたいと憧れたところだったのだ。

今、時間はたっぷりある。もし行くとしたら、ただ観光ルートに乗っていくよりも自分流の旅をしてみたい。思い立ったら吉日、まずは訪れるべきポイントを決めるべく、その歴史や言い伝えなどを調べてみることにした。
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1.お伊勢参り

伊勢街道は、日永の追分で東海道から分岐して伊勢湾沿いを南下し伊勢へと至る。その距離およそ18里(約70㎞)。日永の追分、白子、津、六軒、松坂、斎宮と続く伊勢へのルートは近世にほぼ固定され、幕府によって脇街道として整備された。

伊勢神宮の正式名は「神宮」であり、伊勢はつかない。そしてもともと皇租神を祀る神社として一般人は参拝できなかったが、平安時代以降、天皇・貴族の権力が衰えると、武士、そして庶民にも伊勢信仰が広がり、室町~戦国時代ごろには庶民の伊勢参宮もかなり一般化していたという。

御師と呼ばれる人々が地方に赴いて布教活動を行い、各地で「講(伊勢講)」と呼ばれる組織を伊勢参りをすすめていった。近世の伊勢参りでは、この講で資金を積み立て、その代表者が伊勢参りをする「本参り」が主流であったが、中には親や主人の許可なく抜け出して参宮する(抜け参り)者もいた。ただ、主人らはこの抜け参りを咎めず、帰って来た時にはお祝いをして迎えたので後を絶たなかったという。

また、江戸時代には、人々が一時期に集中して参宮に押し寄せる「おかげ参り」が50~60年周期で流行した。時には500万人もの人々が熱狂的に伊勢を目指したそうな。「おかげ」という言葉には、天照大神のご加護や恩恵への感謝が込められており、参詣者はその感謝の気持ちを表すために旅をした。また、道中では沿道の人々からの施しを受けることができたため、経済的に余裕がない人々でも参加できたのが特徴だ

宗教は異なるが、イスラム教徒が一生に一度は訪れたいと思った巡礼〈ハッジ)の地・メッカは、日本人にとってのお伊勢さんだったのだろう。興味深いのは、これらの参詣が単なる宗教的行為にとどまらず、庶民の自己解放や文化交流の場としても機能していたと思われること。巡礼を通じて、地域間の文化や技術が広がり、庶民の生活に新しい風をもたらしたことだろう。

伊勢街道は江戸時代には東海道に次いで交通量が多いにぎやかな街道で、多くの物資や情報も行き交い、途中、東海道、伊勢別街道、伊賀街道など多くの街道が合流・分岐するため伊勢国の幹線道路として、地元の人々にとっても重要な道であった。

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