西行~その2

西行について語られている落語「西行 鼓ヶ滝」があることをご存じでしょうか? 歌人として名高い西行が、もともとは武士であったことは知られていても、紀州出身だったことは意外と知られていません。

西行の俗名は、佐藤義清(のりきよ)といいました。この佐藤氏は、紀州那賀郡の摂関家領田仲荘(紀の川市)の預所を務める荘官の家筋で、この家系は、俵藤太と呼ばれた藤原秀郷を祖先としていました。

ところで、西行の系統は、早くから関東を離れて京都へ出仕する下級武官の職を務める家筋となっていました。摂関家領田仲荘との関係は、西行の曽祖父公清、もしくはその父公光の代から始まったと考えられ、公清が左衛門府に出仕したところから、左藤(佐藤)を名乗ったとされています。

西行は、公清の孫、康清の子として元永元年(1118年)に生まれ、保延元年(1135年)には鳥羽院の指示で兵衛尉に任官され「北面の武士」にも採用されています。なお、西行の母は源清経の娘であり、この源清経は、今様や蹴鞠にすぐれた人物として知られていました。このような環境のもとで、西行は、佐藤氏伝来の武芸のみならず、歌道や蹴鞠、故実なども早くから学んでいたと思われます。

西行は、保延6年(1141年)、23歳の若さで出家しますが、その理由は明らかにされていません。考えられることは、西行の仕えていた鳥羽院と摂関家との間の荘園領有をめぐる紛争に原因があるのではということです。すなわち、田中荘の経営が時として危機的状況に陥ったことです。推測ですが、西行は、仕える院と生家の立場の板挟みになり、それが理由で出家したのかも知れません。

西行は、高野山に草庵を営み、京都へもたびたび顔を出すとともに、陸奥や出羽、瀬戸内や讃岐へと赴いており、高野山詣での貴紳らとともに粉河寺や和歌浦などの案内で同行しています。歌人として著名な西行が、紀ノ川流域で詠んだ歌がきわめて少ないのは何故なのか。これも一つの謎です。

~つづく~

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