森本剛史君との思い出3~中学校時代

小学校高学年からあとはクラスも一緒になったり離れたりでした。それとお互いに他にも新しい友達ができたので、常に一緒にいたわけではありませんでした。ただ、何かあると声がかかるという関係はずっと続いていました。

クラブ活動

城南中学校へ進んでからは、お互いにクラブ活動に力を入れるようになり、会う時間そのものは減っていきました。彼はバスケットボール、私は野球に夢中になりました。半年続けて秋になったころ、野球部全員の健康診断があり、新入の1年生部員のうち私を含め9名が全員、急性腎臓病と診断され、即クラブ活動を停止せざるを得なくなりました。

昭和33年、長嶋茂雄が颯爽とプロ野球界に登場し、その大活躍で日本国民の目をひきつけていた時でした。また、新宮高校は甲子園へ出場するほど強く、前岡という投手は、残念ながらプロでは大成とはいきませんでしたが、あの金田投手の再来といわれるほどの才能の持ち主でした。ですから、野球少年はみんな憧れをもって野球部に入り練習がどれほどきつくても音を上げずついて行ったのでした。

その無理の結果が発病でした。急性腎臓病、若年性高血圧症、ネフローゼ症候群などと診断された私は、尿にタンパクがたくさん出てしまうために血液中のタンパクが 減り、その結果、むくみが起こるようになりました。また、向う脛を指で押すと、押した部分だけペコンとへこんで暫く元に戻らないという症状がでました。以後、食事療法として塩気のものを食べられずに嫌な思いをしました。

半年以上そんな状態が続きましたが、少し良くなった頃、運動好きだった私は、今度は中途で卓球部に入り卒業まで続けました。彼はバスケットを続けていて、同じ体育館だったので、時々「おー、やってるな」と確認し合うような感じでした。ただ、時間的な余裕がなくなったので、小学校のときのようにいつもつるんで歩くということはありませんでした。

天文部創設

暫くすると、剛やん(ずっとそう呼んでいました)が、当時城南中学校にはなかった天文部を創りたいと持ちかけてきました。そういえば、一度、誰かが(多分先生?)校庭に天体望遠鏡を据えつけて、夜、希望者に星を見せるというイベントがありました。たしか、土星の輪っかがかろうじて見えるなどと騒いだことを覚えています。

それが影響したのかどうか、思うことを何でもやってしまうのが剛やんの得意とするところ。提案してくることが何故か私にも興味のあることが多く、ついそれに乗っかる。結局、もう一人、クラスメイトの森誠君を加えて3人で城南中学天文部を結成!当時、森君の家が相筋にあり、町の灯りからはちょっと離れて夜になると真っ暗になる場所だったので、夜空の観測にはもってこい。徹夜して、星の移動写真を撮りました。

移動写真を撮る方法は、三脚にセットしたカメラのレンズを空に向け開放にしておいて、一定の時間ごとに交代して、蓋をした学生帽をさっとはずして、また閉じるという原始的なやり方でしたが、結構うまく撮れました。市が主催した何かの展示会に、太陽系の惑星の位置模型を作り応募したこともありました。冬場の徹夜観測は凍えるほど寒いので、その対策にしたことは、たたいてもあまり痛くない柔らかいボクシンググラブをはめてお互いがプロボクサーの真似事をして暖まったのでした。

部としての活動は結局大したことはしていないのですが、何せ「無」から「有」を作ってしまうところが彼の凄いところです。今、城南中学校に天文部はあるのでしょうか?

授業で先生をいじめる

私は運動は大好きだったけれど、家に帰ってから予習や復習が嫌いでまずしたことがありませんでした。自由に好きなことができる時間がなくなるのが嫌だったのです。その代わり、成績が悪いと言われるのも嫌だったので授業中は集中して真剣に聞くことだけは実践していました。

ある日、剛やんが私のところにやってきて、「とっちゃん、ちょっと面白いことを考えたんやけど、どうやろ?」という。「なに?」と身を乗り出す私。今度はどんな提案か興味津々で、聞いてみるとそれは、これまでにはないちょっと変わったものでした。N先生の授業の時に、数名で質問攻めをすれば、1時間のその授業を潰せるのではないかというものでした。

丁度その日の時間割に、N先生の国語の授業が入っていたのですが、授業が始まってすぐに、剛やんがまず、先生、前回の授業についての質問がありますと手を上げました。このように、受け身ではなく自分から積極的に質問してくる生徒を評価している先生でしたので、もちろんこれに答えて熱心に説明を始めました。ある程度、やり取りが進んだころを見計らって今度は私が手を上げて意見をいいます。同じように、次は森君が続けます。

これを繰り返して結果は大成功!とうとう新しいところには進めず授業をまるまる潰した結果になったので、3人は大満足!今でしたら、ハイタッチというところでしょうか。先生には少し気の毒なことをしましたが、若気の至りで反省しつつも、一方で忘れられない楽しい思い出となりました。その後、何年経ってもこの話題が出て大笑いしたものです。

これまで、いろいろ彼の提案したアイデアに乗ってきましたが、今回のようないたずらっぽいものはこれが最初で最後でした。その先生に恨みとかがあるわけではなく、ただ、面白がって、ほんとうにできるかどうか試したいという軽い気持ちでした。きっとみなさんの中にも同じような経験があるのではないでしょうか。

いくつあったかわからない剛やんのアイデアが、どこからどうして湧いてくるのか考えてみましたが、多分、彼が読んだ様々な本から来ているのではないかと思っています。彼は本好きで、いつも本を片手に持った姿が印象的でした。私と会う時は、いつもまず最近読んだ本の紹介でした。

世界一周の旅に出たのも、小田実の「何でも見てやろう」がきっかけですし、まさにその精神で、100か国以上もの外国へ出かけていって何でも見てきたのでしょう。森本剛史を作り上げたのはまさしく「本」だったような気がしています。そして、彼の持つ抜群の吸収力とその優れた生かし方で彼という人間を作っていったのだと思います。

~つづく~

西  敏

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