私のふるさと~奈良県五條市西吉野町4

8.家の様子
家は、私が小学校に上がる直前に建った。母方の実家から借金して学校の近くに土地を買ったもので、父が仕事から帰って毎日少しずつ木を削り下準備、棟上げの日には村の人が総出で手伝ってくれお祭りの様だった。

この辺りでは皆大工の技を心得、倉庫位は自分で簡単に建ててしまう。我が祖先代々からの家は寺の下にあり、蔵のある大きな屋敷であったが、山っ気のあった祖父が大阪に出て事業(多分バクチ)に失敗し、川の近くの道路際に上流の古家を買って筏で運び移築、暫く住んでいたが懲りずに又大阪に出て再び失敗、村の外れに家を建てて住んでいた。祖父は戦争中に64歳で亡くなるのだが、終戦になって父が満州から引揚げここで結婚して暮らしていたところ、南方から腹違いの兄貴が復員。一家は追い出されて母の実家松場の納屋を借りて生活。私と妹はこの納屋で生まれ、5つ違いの弟は新しい家で生まれた。


新しい家は父の設計した平屋で、土間が1/3程あり外から帰っても土足のまま煮炊き出来るようになっていた。入口を入ったところに芋穴(低温庫)があってサツマ芋や接木つぎきする柿の穂の保管に使っていた。土間には大きなけやきの木をくり抜いた臼があって、餅つきやこんにゃくを潰すのに使った。臼は父が彫ったものである。その奥は台所でへっついさんの上に竹棚を設けコンニャク芋をいぶして保管していた。玄関を入って右手には腰掛があり火鉢を置いて近所の人や行商の接客に使用し、込み入った話は上がってもらって客間で、そのまま泊まってもらうこともあった。

冬場、この火鉢で祖母が暖を取りながらかき餅を焼いてくれた。私は怒られながらもよくこの火鉢の上に蛙の如く跨いで座った。寝巻の裾が炬燵の様に火鉢を被い丁度お尻の下から気持ち良い暖が上がって来る。客間は普段は私の勉強部屋で小学校の頃は座り机、後には椅子付きの机に替わった。奥の座敷は寝室で田の字の間取り、襖を外せば大広間となり、葬式や山の上の人の結婚式にも使われた。一番奥には仏壇と床の間があり、床の間には祖父の造った立派なけやき一枚板の机があった。

尾籠びろうな話ではあるが当時はどこの家でも畑の肥やしを作るため汲み取り式のポッチャントイレで大の時は”おつり”が来るのが普通だが父の設計したトイレには落下点に微妙なスロープがあり”おつり”が来ないと村でも評判であった。又、風呂やトイレも 母屋おもやと離れて建てているところが多かったが、我が家では居間からそのまま行ける様になっていた。井戸は裏の山からの湧き水でそのまま横の田んぼを潤し、下の川まで流れていたので結構水量はあった。

風呂は鋳物の五右衛門風呂でゲス板を敷いて入る。湯加減を聞いて井戸から水を汲み直接窓から投入。夜のこととて井戸に放してあった金魚を一緒に汲んでしまったこともある。毎日の水汲みと風呂焚きは子供の仕事であった。食卓は儒教が色濃く残っている村のこと、席順も決まっていて祖母と母は土間で給仕役。朝夕は茶粥で、銀の 御飯おまんまは昼だけであった。

縁側は夏には夕涼みの場。田んぼを飛び交う蛍が見えたし、お宮の上には流れ星、お祭りの夜にはお宮まで引揚げられるススキの行列を眺め、太鼓の音もよく聞こえた。スイカを食べる時は、家族皆で縁側に並んで種を口から吹き石垣下の畑まで飛ばせるかを競い合ったものだ。

家の横には脱穀機や 碾き臼ひきうすなど大型農機を置く納屋があり、その横の空き地を利用して鶏を飼っていた。卵は勿論自家消費用であるが、近くにダム建設の飯場が出来てからは家族の口に入らず飯場への売り物として使われた。松場など山際の家では狐やいたちに襲われるのだが、我が家にはよく青大将が入ってきた。卵を飲み込むのは勿論時には親鳥を締め上げて尻から血を吸う。蛇は敵として嫌われていた。

この家も父が亡くなって、母が妹の内職を手伝う為に岐阜に出て行ってからは山の上の人が娘を通学させるために借りてくれ、その後もずっと使ってくれている。

つづく

土谷重美

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