私のふるさと新宮市~歴史5 成川屋佐兵衛

成川屋佐兵衛
泉州堺に生まれた成川屋佐兵衛は、慶長(1596-1615)のころ材木に目をつけ、堀内氏の時代に新宮に来たといわれています。彼の屋敷跡は熊野川を挟んで対岸、現在の三重県南牟婁郡紀宝町の元役場の下手にあった。その持ち船の数は圧倒的だった。佐兵衛の死から60年後の宝永8年(1711)の調べでは、成川屋の持ち船は49艘、ほかに客船77艘の廻船があったといわれている。

新宮の城主・浅野忠吉が新宮に移り住んだときも、川奥の代官として佐兵衛に税の取立てを行わせている。城主が水野氏に替わった後も、江戸との取引は活発に行われた。しかし、女性を船に乗せた容疑で投獄され、慶安4年(1651)10月、ついに獄中で病死した。

成川屋佐兵衛の全盛時代はどんなものだったのか、その一端が次のように紹介されている。まず、速玉大社の裏の相筋にある成林寺(じょうりんじ)を独力で建てた。この寺は以前には広正庵(一名孤松庵または古松庵)と呼ばれ、かなり古くからあったようだ。広正寺から成林寺になったときの住職は、涼山和尚という人で、寛文4年(1664)、佐兵衛獄死から14年後に亡くなっている。

また、世界遺産に追加登録された阿須賀神社の拝殿も佐兵衛一人の力で建立されている。佐兵衛の墓は、成林寺の相筋丸山にあったが、大正7年(1918)6月8日に対岸の成川の龍光寺境内の共同墓地に移され、現在もその場所にある。ここ成川の地名は成川屋佐兵衛が由来だったのだ。

成川屋佐兵衛は木材の集散地として一時代を築いた新宮の発展に寄与した人物として、紀伊国屋文左衛門と共に、忘れることが出来ない名前である。

〜つづく〜

西  敏

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