私のふるさと~和歌山県新宮市11~名誉市民 中上健次

新宮市では、市に対して功労のあった人、または広く社会の進展、学術文化の興隆に貢献しその功績が顕著である人(故人を含む)に対し、市民の敬愛の対象として顕彰しています。これまでに11人の方々が顕彰されています。

中上 健次(なかがみ けんじ)
1946年〈昭和21年〉8月2日 – 1992年〈平成4年〉8月12日)は、日本の小説家。妻は作家の紀和鏡、長女は作家の中上紀。

和歌山県新宮市生まれ。和歌山県立新宮高等学校卒業。新宿でのフーテン生活の後、羽田空港などで肉体労働に従事しながら作家修行をする。1976年『岬』で第74回芥川賞を受賞、戦後生まれで初めての芥川賞作家となった。

紀伊半島を舞台にした数々の小説を描き、ひとつの血族と「路地」(中上健次は被差別部落の出身であり、自らの生まれた部落を「路地」と名付けた)のなかの共同体を中心にした「紀州熊野サーガ」とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。

主要作品に『枯木灘』(毎日出版文化賞、芸術選奨新人賞)『千年の愉楽』『地の果て 至上の時』『奇蹟』などがある。992年、腎臓癌の悪化により46歳の若さで死去した。

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修行時代、芥川賞受賞
1965年、早稲田大学受験の名目で同級生とともに上京するが、実際に大学受験をしたかどうかは定かではない。その後入学した早稲田予備校には三ヶ月も通っておらず、仕送りを受けながら、仕事もせずに、新宿あたりをうろつくといった生活をしていた。当時盛んだったフリージャズを中心とするモダンジャズにのめりこみ、ジャズ喫茶のジャズビレッジやビレッジバンガードに入り浸った。

1965年の秋、原稿を投稿するために月会費を払い込んで同人誌『文藝首都』の会員となる。翌年、投稿した『俺十八歳』が掲載される。その後、同誌の同人となりエッセイ、創作を同誌に発表していく。この頃は、盛んに詩作をしており『文藝首都』『詩学』『文學界』などへ詩を発表している。また『文藝首都』を通じて、後に妻となる山口かすみや津島佑子と知り合っている。

1967年頃には新左翼運動に関わっている。偽学生として早稲田大学でブント系の組織と接触して羽田闘争に参加している。1968年、『三田文学』誌を通じて柄谷行人 と知り合い 、柄谷からウィリアム・フォークナー、エリック・ホッファーなどを勧められて大きな影響を受けた。1970年、交際していたかすみの妊娠を機に結婚する。入籍時、名字の読み方をそれまでの「なかうえ」から「なかがみ」に変更する。結婚をきっかけにして、中上は肉体労働を始め、その夏から羽田空港で貨物の積み下ろし業務に従事する。

1973年『十九歳の地図』が芥川賞候補となる。これを受けて1974年から文芸誌への作品掲載が増え始める。羽田での仕事を辞めて、その後二年間、築地魚河岸や運送会社などでフォークリフトの運転手をして生計をたてながら執筆を続ける。1975年『鳩どもの家』『浄徳寺ツアー』が続けて芥川賞候補となる。1976年、熊野の「路地」を舞台に、家業の土方仕事に従事する青年を中心とした複雑な血族の物語を描いた『岬』第74回芥川賞を受賞する。戦後生まれで初めての受賞者であった。

人的交流
中上は単なる純文学の作家であることにとどまらず、文化的な寵児となった。人的な交流は幅広く、作家や批評家以外にも、文化人(例:坂本龍一 、唐十郎など)、芸能人(例:都はるみ、ビートたけし、宇崎竜童など)、学者(例:阿部謹也、中村雄二郎、上野千鶴子など)らと時代や世相、思潮、文化、歴史など多岐のジャンルにわたる対談、座談を数多く行った。それらのほとんどはのちに発言集、対談集に編纂されている。

中上の文学を高く評価した批評家である柄谷行人、蓮實重彦と交流があったこともあり、1980年代に流行した思潮であるニュー・アカデミズムに大きな関心を示し、言及も頻繁におこなっている。ニュー・アカデミズムに属するとされる思想家(山口昌男、栗本慎一郎、四方田犬彦など)との活動や対話もおこなった。1986年にはパリ、ポンピドゥ・センターで開かれた「前衛の日本 」展に柄谷行人 、蓮實重彦、浅田彰と参加し、ポスト構造主義の思想家ジャック・デリダと公開対談をおこなっている。

(出典:Wikipedia)

ヤタガラス

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