三輪崎の鯨踊りについて

kujira鯨といえば太地と誰もが思い、まさか新宮が関係しているとはご存知ない方も多いのではないでしょうか。和歌山県の無形文化財であった「三輪崎の鯨踊り」が、去る4月に日本遺産として認定されました。そして、昨9月18日、認定後としては初めて三輪崎八幡神社例大祭で披露されることになりました。

三輪崎は、捕鯨に関してはあまり知られていませんが、実は江戸時代、「三輪崎鯨方」が置かれ「三輪崎組」あるいは「新宮御組」といって、新宮領主・水野氏による公営で鯨漁が盛んに行われていた漁村だったのです。では、三輪崎では捕鯨がいつごろからどのようにして行われていたのでしょうか。

捕鯨の歴史
明治時代前の日本では、牛肉を食べるという習慣がありませんでした。人々はさまざまな動物や魚から動物性たんぱく質を摂っていたと考えられますが、特にこの紀南地方では目の前の海で捕獲できる鯨からたんぱく質を摂っていたのです。

また、鯨は縄文、弥生時代から、さまざまなかたちで人間の生活に利用されてきた歴史があります。捨てるところがないといわれるほど利用の途が多く、鯨肉と 軟骨(松浦漬や玄海漬など)は食用、鯨髭・歯は笄(こうがい)・櫛などの細工、髭毛は鋼に、鯨皮は膠や鯨油に、筋は弓弦などの武具に、鯨骨は鯨 油や肥料に、血は薬用に、脂肪は鯨油に、糞は香料(竜涎香)に用いられました。熊野灘や紀伊水道で古くから捕鯨が行われていたのはそうした理由からでした。

近世以前捕鯨の方法は、海流に乗ってやってきた鯨を浅瀬に追い込んで捕獲する方法などが紹介されていますが、近世以降には、二つの方法が伝えられています。

まず、一つ目は、「突取法」という方法です。20艘前後の船団を組み、鯨を追い、刃渡り3、4尺(約1m)の銛を体当たりのようにして鯨に打ち込んでしとめる方法です。多くの漁師たちがこの方法をとっていました。この地方では、慶長11年(1606年)太地浦で銛突き法による捕鯨が始まると、「紀伊続風土記」に記述されています。

また、「熊野太地浦捕鯨史」には三輪崎の彦兵衛・勘兵衛が、銛打ちの名手として紹介されており、また延宝3年(1675年)には太地浦庄屋・和田角右衛門が中心となり、浦神、下里、森浦、勝浦、宇久井、三輪崎、七浦の庄屋たちが集まり、突取漁法に関する定書を結んでいます。

こうして捕鯨に携わる人が増え、それに伴い捕鯨に関する技術が進歩していく中で、延宝5年(1677年)、角右衛門らによって網と銛を使った「網取り法」という方法が発明されます。この方法は、勢子船で鯨を網の中に追い込み、網船で囲い、身動きの取れない状態にして銛で突くという方法で、「突取法」では捕らえることが難しかった種類の鯨を捕獲できるようになりました。

こうしてこの地方では捕鯨が盛んに行われていたのですが、歴史とともに盛衰を繰り返し、明治時代以降、捕獲数の減少や人々の生活の変化などにより捕鯨は衰退し三輪崎では行われなくなってしまいました。

捕鯨が行われなくなった三輪崎ですが、かつて捕鯨が栄えていたという証が、「鯨踊り」というかたちで、三輪崎郷土芸能保存会によって保存伝承されています。この「鯨踊り」は江戸時代に大漁を祝った踊りで、昭和49年(1974年)に和歌山県の無形文化財に指定されました。

「殿中踊り」と「綾踊り」の二つの踊りからなり、「殿中踊り」は、鯨に絡めた網を巻いている様子を、扇子を持って表現し、「綾踊り」は、鯨に銛を打ち込んでいる様子を綾棒を持って表現したものです。また、踊る時に身につける衣装は、白地に黒・赤・緑の線が入っています。黒は鯨を、赤は鯛を、緑は陸地を表しているといわれています。

毎年、秋の三輪崎八幡神社例大祭で、この「鯨踊り」が「三輪崎郷土芸能保存会」によって神前で奉納されています。この踊りを見ながらはるか江戸時代に思いを馳せれば、当時の熊野・三輪崎の人々の生活や願いが垣間見えるかもしれません。

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