明治期以来の学者列伝~①山田常典

伊予国吉田藩(現在の愛媛県宇和島市)に生まれ、江戸に出て国学を修めついに大家となりました。水野忠央はその学問のすぐれていることを知り、家臣に迎え、「丹鶴叢書」の編纂の責任者としました。「丹鶴叢書」とは、古い書物のなかでも良質な作品を集め印刷して、世の中に広めようとしたもので、新宮藩あげての大事業でした。

丹鶴とはもちろん新宮のお城の雅称「丹鶴城」からとったものです。当初、この叢書の編纂は一千巻という壮大な計画のもとに始まりましたが、幕末の激動期と重なり、七年目171巻で中断しました。しかし後には江戸時代の三大編纂物の一つといわれるほどの画期的なものでした。(残りの二つは「群書類従」と「大日本史」)

万延元年(1860年)、桜田門外の変で井伊大老が水戸の浪士に暗殺されたことがきっかけで、大老と組んでいた水野忠央は新宮に蟄居を命じられ、帰新しました。その後、しばらくして山田常典も忠央に呼ばれ新宮に来ましたが、三年後の文久三年(1863年)、56歳で病気で亡くなりました。

常典は和歌にもすぐれていて、折に触れては詠んでいます。

神のます 三熊野さして はるばると 今日ぞいで立つ 武蔵野の原
三輪の崎 沖つ雪けの 汐風に 鯨とる船 はたとひらめく
霜おかぬ 南の海の 浜風に 芦のみ冬を 知りげなる哉

 

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