明治期以来の学者列伝~③宇都宮三郎
宇都宮三郎(1834-1902)は、柳河春三と同じく尾張藩浪士です。春三の推挙で、忠央が建造した西洋船「丹鶴丸」の操船を依頼されます。
丹鶴丸について「此船のことに懸ったのは未の年の2月で、3,4,5と4箇月ばかり懸って漸く出来上り」と「宇都宮氏経歴談」にあるように、安政6年(1859年)に船をまかされています。丹鶴丸は、宇都宮三郎に依頼する前年の安政5年(1858年)に完成していますが、この安政5年という年は、井伊直弼が大老となり、紀伊藩主徳川慶福を次の将軍に定めた年で、水野忠央が長年運動してきたことが成就した年であり、新宮の人にとって忘れられない年です。
同書に、丹鶴丸製造について次のようにあります。「(略)大脇と云ふ人が紀州、水野土佐守の城下に往って丹鶴丸と云ふ艦を製造した。長さ水際で十三間半、幅は水際にて長さの十一分の四位の艦で、大きい艦ではないが、軍艦のつもりで造った。これはコルヘットの図を割り下げたので三本マストの帆船であった。此艦を造るには大分費用も懸って出来たが進水式には艦は横に臥て仕舞って乗る事もドウする事も出来ないので大いに困ったが多勢で漸くのことで起こして浮かしてあった。」
このあと同署によれば、「水野家では率先して軍艦を製造したのに斯う云ふことになっては幕府に対しても誠に外聞が悪い。(略)併しながら艦はドウしても江戸へ持ッテ来なければならぬ、と云ふので種々心配を致し、其頃柳河春三(此人は私の友人)と云ふ人が翻訳の事を頼まれて市谷原町の水野の下屋敷に往って居ッたから同人にも相談があった。
(略)尾州のもので自分の友人に宇都宮と云ふがある。其者ならば遣るかも知れぬ。ソレへ頼みては如何。と云ふた。水のはソレは持ッてきて呉れさへすれば誰でも宣い。ドウか其人に頼みたいものだ」という事情で、宇都宮三郎は丹鶴丸を江戸まで操船することを引き受けたのです。三郎はバラスを艦底に入れ重しにしてバランスを取り、無事江戸まで航海しました。
宇都宮三郎は、後には開成学校(現在の東京大学)の教授となり、明治35年(1902年)7月23日、享年69歳で東京でなくなりました。