和歌山県の民話・伝説⑧太地のクジラえびす
むかしから、太地の浜には、がいにクジラがよってきたもんやった。ナガスやセミやザトウクジラみたいな大物から、ゴンドウのようなちっこいクジラまで目の前を通りかかってにい。田も畑もちょびっとしかない村の人たちらが、あのクジラとったろかいと思うのはあたりまえじゃわのし。
そやけど、はじめのころのクジラ漁は、小舟でクジラを追いかけ、銛で突くだけというやり方やった。そやから、大きなクジラになると、もうお手上げや。あばれてあばれてどうにもならんがよ。それに、なんぼう小舟をそろえてこぎよせたところで、深い海に潜られてしもうたら、それでチョンや。
庄屋をやってあった和田頼治という人は考えた。
「なんぞ、うまいやり方はなかろかの」
毎日毎日考えてあったある日のことや。家の軒先にクモが巣をかけたあるのが見えたんやてにい。はじめは何も思わんと見てあったが、巣ができあがったとこへ一匹のセミが飛んできてひっかかったんやてよ。セミはもがく。懸命にもがくが、逃げ切れやせん。そのうちにクモが飛びかかってしとめてしもうた。
「わかった、これや」
頼治は飛び上がってよろこんだがの。
「そうや、大きな網をこさえて、クジラの前にたらしたらどうやろ。もたもたしたあるところへ、みんなで銛を打つ。ええ考えやないか」
早速村の人らにわけをいうて、仕事にとりかかった。お金も借りてきた。網をこさえる者、網につける樽や重しをつくる者。小舟も足の速いものがいるし、銛もぎょうさん使うことになる。大勢が手分けして仕事にかかったんやしてよ。
やがて夏も過ぎ、秋も過ぎて、さむい風が吹き出したわにい。クジラは寒い北の海から暖かい南の海へとやってきた。岬の上では見はりが狼煙をあげて、ほら貝をふく。海の上では、何十もの小舟が、
「ヒーヤー
ヒーヤー」
ちゅうて漕ぎだした。
大物や。セミクジラや。潮吹きが頭の上で二つに割れたあるがよ。すすめえ、すすめえちゅうんで、クジラヲ取り囲んだんやてにい。もともとクジラは音に弱いもんやから、どの小舟でも木づちで、
「トントントントン・・・」
音をたてる。ほたら、クジラはいやれんようになって、音のせん方へと逃げる。そこへ、
「網はれえ」
ちゅう命令や。うまいこといくやろかと見とる間に、クジラは網に頭を突っ込んだ。こらかなわん、なんじゃろかいと暴れたあるところへ、どの舟からも銛を打つわにい。
クジラは、いたいもんやから暴れる。そやけど、網には樽がついとろうが。潜り切れんと暴れまわる背中へ、つくつくと銛が立つ。あたりはもう、ぎらぎらと血と油で光だしたわ。
それでも、相手は潜る。後を追うてはまた、網をかけて銛を打つ。人もクジラも、死に物狂いや。あのどでかい尾羽で、ばしんとたたかれたら、小舟なんぞ、こっぱみじんやもんにい。
それでもさすがの大クジラも、とうとう力つきて、どてえっと海に浮いたところを、綱を付けて、えっしえっしと引っ張って帰ったんやと。
そらあ、村はえらい騒ぎになったわよ。今までてんから諦めてた大クジラが獲れたんやもんな。
それからっちゅうもんは、もうでっかい相手にもこわがらんと、かかっていくことになってのし、クジラの太地は日本中に有名になっていったがよ。そのうちに四国の土佐でも九州の長崎でも、この網を張るやり方を真似するようになったということや。
おかげで、庄屋の頼治は江戸でも「クジラえびす」と言われるほど有名になってのし。村も栄えた。
今かえ、今も太地はクジラの町やがの。博物館もできたある。網にかけるやり方は明治の初め頃で終わったけど、勇ましい太地の男らは、砲手になって南氷洋へも、どんどん出かけていったもんじゃわ。
(八咫烏)