新宮城

新宮ネットの共同代表である「こぶしん」こと小渕伸二氏が、2018年3月3日午前7:35からNHKラジオで放送された「歴史を探しに 城歩きの勧め」(作家:伊藤 潤)を聞いて、その内容を書き起こしてくれました。大変貴重な内容なので是非みなさんに紹介したいと思います。

 

(前  略)

新宮城は、大変風光明媚な城です。戦国時代終盤まで熊野三山の別当の別邸があったという地に立っています。

最初に築城したのは、関ケ原合戦直後の慶長6年(1601年)28000石で入った浅野忠吉でした。江戸幕府の一国一城令によって一旦廃城になった後、大阪の陣が終わった後の、元和4年(1618年)同じ地に近世城郭として再び築城し直されました。

その後、浅野家が転封となると徳川家康の10男となる徳川頼宜が入り、紀州徳川が発足します。その時に頼宜の付家老の、水野重仲が新宮35000石を拝領し新宮城に入りました。その後、水野家が明治維新まで、新宮城を本拠として使い続けました。

▼「新宮城にまつわる歴史的事件教えてください」(アナウンサー)

この城は、城郭攻防戦もなく特に大きな事件もありませんでした。ただ、新宮と言えば面白い話がありまして、今から、200年ほど前、秦の始皇帝の命を受け不老不死の霊薬を探しに来た、徐福という人が、上陸した地として有名なんですね。

徐福伝説は各地にあるのですが、中国の史書に地名が出てくるのは新宮だけなので、その信ぴょう性は、かなり高いというふうに言われています。結局不老不死の霊薬は、見つけられなかったのですが、帰るに帰れなくなった徐福は、そのまま、新宮に住み着いて、造船や紙すきの技術を教えたと伝えられています。

その徐福が、住んでいたのが新宮城の麓なので、きっと後に新宮城のできる場所にも、訪れたはずです。そこから、熊野灘を眺めつつ、徐福は故郷を懐かしんだのではないでしょうか。
▼「築城のはるか前の出来事ということということですね」。(アナウンサー)

▼新宮城は構造的には、どのような特徴があったんでしょうか。(アナウンサー)

全山総石垣づくりの、この城は分類としては平山城となりますが、北に熊野川、南東に海、そのほかの方向も山々に囲まれており、立地にも十分な配慮がなされております。この、三層5階の天守は、南角にあったという本丸、その北に出丸、本丸の西に鐘ノ丸、北側に松ノ丸がありこの4つの曲輪が中核部分となっています。

これらの曲輪は、北を流れる熊野川に向けてコの字状になっており、その中央部分に舟入、いわゆる船着き場が設けられていました。これは、文禄慶長の役の際に朝鮮半島の南部に作られた城を、逆輸入して作られた城と言われており、城の中核部分が舟入を守るように、囲んでいるという非常に珍しい構造です。

▼「城の中に港があったという、水と共にあったという城なんですね」(アナウンサー)

おそらく平和な時代ですから、すぐに船を出せる戦闘に備えるというのではなくて、城に何か物資を運びこむときに、非常に運び込みやすかったとか、新宮城内の港の役割は、そういうことだった、物流中心ですね。

▼「新宮城に行った時の注目ポイントを伺います」(アナウンサー)

この城の魅力は何といっても石垣です。特に注目は、本丸虎口の石垣で、切込接ぎの石垣と打込み接ぎの石垣が混在し、そのコントラストが独特の雰囲気を醸し出しています。ま、太平のとき、古いものでも使えるものは使おうとしたのか、作った石工集団が違うのかはわかりませんが、とても違和感があります。

簡単に言うと、石垣は、野面積み、打込み接ぎ、切込接ぎ三種類があるのですが、

・野面積みというのは、落ちていた石をそのまま積んだという原始的なという積み方「どんどん次々積んでいく」
・打込み接ぎというのは、おおよそこんな感じでうまくいくんじゃないか、という感じで積んだ後に、美しく仕上げていく。
・切込接ぎの場合は、どういうふうに積もうか、という計算に入れたうえで、石切の段階から測ってそれで切ってきれいな形で積んでいく、方法です。

▼「野面積みが積んだだけのやり方、打込み接ぎは一応積んでからそれを成型するやり方、切込接ぎは石を成型してから積むやり方」簡単に言えばそんな感じですね。(アナウンサー)

石垣と言えばこの城の一番の見所なんですが、それだけでなくて、本丸周辺部からの眺望も実に見事なんですね。南東に熊野灘、北に熊野川、更に川を隔てて熊野古道の拠点である、速玉大社や、紀伊山地の山並み、こういったものが一望のもとに見渡せます。

新宮城跡に立てば、熊野一帯の長い歴史に、思いをはせることができます。

江戸中期~後期「紀州新宮城図」
国立国会図書館
新宮城 本丸虎口

(小渕伸二)

 

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