館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(18)

・母方の系譜と春夫の「初めての旅」(2)
政代の兄、竹田家の当主竹田槌五郎は、明治31年7月3日和歌山市南牛町の自宅で亡くなっています。進行性筋萎縮症を患い、死因は沈墜性肝炎でした(死亡診断書より)。安政4年3月22日の生まれで、享年41歳でした。

「母の兄の最後の槌五郎ははじめ小学校の教師などをしてゐたが、後には妹婿(つまりわたくしの父)をたよつて熊野の方へ来て三等郵便局の局長をしてゐたといふ。ちやうどわたくしの生れた明治二十五年ごろは紀州の勝浦にゐたので、新宮まで五里の道を駆けつけて妹の安産を喜び、わたくしの前途をも祝福してくれたと聞く。しかしわたくしはこの伯父に見おぼえはない。この人はわたくしの六歳の晩夏に脳溢血か何かでまだ四十を出たばかり、あと厄だかの若さで亡くなつたからである。」(「追憶」・「中央公論」昭和31年4月)と春夫は述べていますが、「はじめ小学校の教師」をしていた明治6、7年頃、和歌山市湊紺屋町の雄(おの)小学校で教えたのが世界的な博物学者南方熊楠でした。熊楠は「当時七、八歳なりし小生をことのほか愛し、平民の倅ながら後来必ず天下に名を抗(あ)ぐるものと毎々いわれ候」と記しています。この手記は、春夫が亡くなってから公開されたもので、春夫は眼にする機会がありませんでした。熊楠の伝記本としては3作目に当たるとされる佐藤春夫の『近代神仙譚―天皇・南方熊楠・孫逸仙』が乾元社から刊行されたのは1952年3月で、この手記を目にして、自身の伯父が熊楠の幼少期にその才能を見抜いていたことを知っていたならば、何か一家言はあったであろうことを想像させられるのは楽しいことです。この本は2017年11月河出書房文庫本で『南方熊楠 近代神仙譚』と改題されて刊行されましたが、「今なお色あせない名著」として唐澤大輔が解説文を書いています。「本書が、今なお色あせず、むしろヴィヴィッドに我々に迫ってくるのは、佐藤春夫の抜群の言語センスと鋭いと洞察力によるものであろう。また、その素晴らしい構成力にも感嘆させられる」として、その後の研究では一般化している、熊楠と羽山家の人たちとの不思議な縁にいち早く着目した春夫の慧眼に触れています。

 

 

 

 

 

 

1952年 乾元社から刊行された『近代神仙譚』

「姉は後に和歌山の伯母の許に寄寓して和歌山の女学校に学び、祖母の家へもよく行つたから村の名もよくおぼえてゐるであらうが、わたくしは家での呼び方に従つて湯川氏の在所をただ「三(み)つ家(や)」とばかりおぼえてゐる。」(「追懐」の「その三 祖母の家」)とある、春夫の祖母(とみゑ・天保4年生まれ)の里湯川家の「三つ屋」とは、那賀郡小倉(おぐら)荘の満屋村(現和歌山市)のことで、父は湯川嘉左衛門といいます。「紀伊続風土記」の「満屋村」の個所には、家数49軒、人数174人、「地士 湯川善十郎」の表記もあります。地士とは、戦国期紀州は土豪の小勢力が分割支配したにとどまり、戦国大名が成長しなかったこともあって、紀州に入った徳川頼宣は、土着のまま名字帯刀の武士身分を許し、庄屋とともに地方の代官の役割を担わせました。時代と共に地士の数は増え、商家や医家などにも広がっていったようです。その地士湯川善十郎と嘉左衛門との関係は不明ですが、おそらく一族と解してよいのでしょう。

その「三つ家」の家は、「子供ごころにも甚だすばらしい家に思へた。黒い柱やすすけた台所の天井に見る小屋組のがつしりと見えてゐる田舎屋がめずらしく、そこの大きな戸を自分であけようとしても、とても子供の力では開けたてできないのが面白くくやしくて」完全に自分で開け閉めできるように努力した。さらに、「最も気に入つたのは祖母の家の奥座敷が大きな池の上にのし出して造られてゐたことで、わたくしはその座敷のまはりの椽の手すりにつかまつたままいつまでも池の鯉を飽かずに眺めて遊んだものであつた」(「その三 祖母の家」)ということが、自身がその後、池と言わず、静かな水に面した風景が最も好ましいものと感じる原体験と言えるものでした。

晩年、自身が命名した湯川のゆかし潟の地に、居宅を構えようとしていたということも、長年の夢の実現を試みようとしていたのでしょう。

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