館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(15)

・父の医学修業と新宮での開院(6)
豊太郎の新宮での開業は、かなり早い時期からの目論見であったのかもしれません。大阪遊学から東京行への望みが脚気病によって絶たれた時、そうして祖母や養父母の強い要望を容れて、明治12年4月和歌山の医学校への入学が決まる以前、明治11年12月「日不詳」に、佐藤豊太郎は新宮町7634番地の「佐藤辰右衛門」の廃嫡の戸籍を再興、届け出受付が受理されているからです。

「父が目星をつけた土地が栄えたと同じやうに、父が創設した病院も成功してゐた。/父は外科が専門で、山間の労働者に多い怪我人を治療する目的で、外科を主にした病院を思ひついたものらしい。養父母が実子に跡をつがせたい意嚮のあるのを見て、当然の相続権を放棄し、その代りに勝手な結婚をしたわたくしの父は、那智山南麓の祖先の地から新宮に出て、廃家になつてゐた同姓の他人の家を相続した形で、養父母とは全く絶縁してゐた。それが養父母の側にも、その干渉なしに生きられるわたくしの父にとつても好都合であつたのであらう。」(「追懐」)と、春夫は述べていますが、戸籍再興の時期は結婚のはるか以前のことで、春夫の姪の、豊太郎の孫にあたる佐藤智恵子も「懸泉堂と春夫」(「熊野誌」38号・平成4年12月)という文章で、絶家していた家を再興し別戸を開き戸主となったことに触れていて、そこでは明治11年のことと、明確に記されています。豊太郎はまだ17歳でした。
豊太郎の養父鞠峯(百樹)には5男2女が居ましたが、男子2人は幼少の内に亡くなり、3男は学業半ばで病に倒れています。長女もやがて兄たちの後を追い、2女梢は若林欽堂の後妻となって、若林芳樹らを育てました。昭和36年芳樹が編した「欽堂詩鈔」の叙で、春夫は中学生の時代、学校傍の若林宅に昼弁当を食べに立ち寄り、その書斎を眺めた思い出などを記しています。

鞠峯の3男の延吉は、明治13年4月の生まれ、東京の独逸協会に遊学して医学の道を目指し、後継として期待されましたが、病魔に侵され止む無く帰郷、その後熊野病院に入院して治療に努めましたが、甲斐なく明治36年11月に没しています。延吉は「採圃」とも号して句作にも精を出していたようで、その詩魂は春夫にも受け継がれているのではないかとは、清水徳太郎の見立てです(「新宮町新派俳句事始」・「熊野誌」特集号・昭和55年6月)。

「「自分は辰右衛門家を再興したのでその佛をまつって居ますし今はどうすることも出来ません。ただ自分は一旦別戸した以上自分でどこまでも貫きたいという一心です。決して家を思はぬというような不心得はないのですという話をしました」と百樹死後に書いた回想記にしるしています。何としても自分を納得させられないものがあったようですが遂に止むなく、新宮の佐藤家は(名跡のみですが)春夫にゆずり、自らは下里に帰って名実共に懸泉堂の四代目の戸主となったわけです。大正十一年でした。」と、跡継ぎをすべて亡くして失意の鞠峯から、懸泉堂の相続を再三依頼された豊太郎は断りの言を伝えながらも、引き受けざるをえなくなった事情を、佐藤智恵子は先の文章に記しています。

ところで、豊太郎が熊野病院の経営からやや遠ざかり始めたのは、総合病院としての「新宮病院」が開院されたことも一つの原因だったと言えます。新宮町内の有志を中心に奈良県の十津川や北山の山林業者、木材業者などにも呼びかけ、出資者80名余、拠出金2万4千円で建てられた総合病院、内科、外科、耳鼻咽喉科、産科、婦人科、小児科を有し、しかも東京帝国大学出の医師を多くそろえた病院であっただけに、なかなか太刀打ちできない状況が生まれてきたのではないでしょうか。さらにそこには政治的な状況も絡んでいて、総合病院招致に力を尽くしたのは、いわゆる「実業派」(旦那連)といわれる人たちで、豊太郎などが支持した「改革派」「革新派」と言われる人たちとは、一線を画しており、種々な施策をめぐって対立が先鋭化し始めていたのです。

新宮病院は明治41(1908)年9月、筒井八百珠(つついやおじゅ)の勧めで、一般人の寄付によって、この地に紀南地方唯一の総合病院として出発しました。初代院主は新宮で開業していた松井南洋(まついなんよう)、院長は東京から招聘された西川義方(にしかわよしかた)が努めました。

 

 

 

 

 

 

 

 

新宮病院(手前の瓦屋根とグランドは第一尋常小学校。熊野川方面から仲之町方面を望む。)

 

 

 

 

 

 

 

 

明治41年9月24日付「熊野実業新聞」に掲載された新宮病院の特別広告

開院当初は現在よりももっと面積が広く、木造2階建て、表は槇の生垣で囲まれ、松や青桐、山桃などの植え込みがあり、玄関は洋風。北側の裏は、第一尋常小学校(後の丹鶴小)に隣接していました。しかし、この建物は、1946(昭和21)年12月の南海大震災による火災で焼失してしまいました。

筒井八百珠(1863―1921)は、新宮仲之町の生まれ。筒井家は新宮藩の剣道指南の家柄、新宮病院隣りに屋敷を構えていました。三重県医学校から東京帝国大学医科大学を卒業、千葉医学専門学校を経てドイツに留学して研鑽を積みました。その著『臨床医典』(大正10年南江堂刊・ドイツ語医書の翻訳)は、当時の医学生の必読の書で、長年のベストセラーであったと言えます。筒井が千葉にいた頃、新宮の裕福な木材商らが東京深川の木場に支店を多く出していました。それらの人々に総合病院の設立の要を説いて、医師派遣の手配などを行ったのです。1913(大正2)年岡山医学専門学校の第2代校長に任ぜられ、その後岡山大学医学部創設に尽力しました。絶えず郷土の人々を思いやり、よく面倒をみて、病人の保証人なども買って出たと言います。「鳩ぽっぽ」の作詞者東くめは、筒井の姉琴世(ことよ)の長女に当たります。

病院長の西川義方(1880―1968)は和歌山市の生まれ。東京帝国大学医科大学卒業後、筒井八百珠の推薦で、新宮病院の院長として新宮にやってきました。文学的な才能も豊かで、すでに「明星」派の同人として活躍していました。「挽材(ひきざい)の鋸屑道(のこくずみち)のやは(わ)らかき熊野の海の春の長閑(のど)けさ」「熊野川若鮎(わかあゆ)さ走る早き瀬(せ)に妹(いも)とし立たば何か思は(わ)む(ん)」など、熊野の地での歌を多く残しています。新宮在任中、尾崎作次郎の娘やすと結婚。1914(大正3)年院長を辞職して上京、日本医学専門学校(現日本医科大学)教授となり、その後、大正天皇の侍医を務めました。

ドイツ文学者池内紀に『二列目の人世 隠れた異才たち』という本(2003年晶文社刊、のち集英社文庫)があります。1番を選ばない生き方としてモラエスほか16名が取り上げられていますが、そのうちの1人が西川義方でした。

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