館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(10)

・父の医学修業と新宮での開院(1)
春夫の作品「老父のはなし」(昭和8年10月「文芸春秋」)は、春夫が生まれた年、明治25年の出来事として、父から聴いた話です。1月のこととありますから、まだ春夫は誕生していません。木村元雄(げんゆう)という老医の手紙をもっての往診依頼、長雄友諒という知り合いの手紙をもった往診依頼、ふたりの依頼が鉢合わせになってしまいました。「木村の方は熊野川を三四里日足(ひたり)まで泝(さかのぼ)つてそれから又山道を二三里登つて那智山のうしろに出る大山(おおやま)といふ大雲取・小雲取の間の小村。長雄の方は那智山下の井関村でこれは新宮から俥(くるま)で往ける五里足らずである。」結局、大山から険峻を越えて、井関に回ることにして出かけます。舟旅で句を案じつつの行程ですが、患者宅に着いたのは深夜の1時半。「患婦は三十五歳で三回分娩した位はまづわかつた。望診上体格は無論悪くはないが多少衰弱して血色もよくない。/先づかたの如く脈を診たりしてから腹帯を解かしめ、覆うたガーゼを去ると、あツと驚いた。患婦の臍の上右に小さな手がニユーと突き出て生へて居るではないか。はて妙だなと夢心地に自分の眼を疑ひながら松明りを近づけさせて見るやつぱり手には違ひない。真つ青でまるで蝋細工のやうではあるが触れてみると細工ものではない。あまりに不意で途迷うた。わしは臆病な男だから山中の一つ家しかも夜半若しや狐にばかされたのではあるまいか、今飲んだ酒もへんな匂ひがすると思つた。」とあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大雲取・円座石(わろうだいし)熊野川町・大山(現新宮市)のすぐ近くにある。 (写真提供:新宮市)

夜が明けて冷静になってきて、これは子宮外妊娠かなと思ったということです。家族との会話で「勿論病気です子宮外妊娠と謂うてね、子ぶくろの外へ子どもが宿つたのです。それが出るところがないから破れて来たといふ様なわけと見えるね。まあ破れたのが為合せだね。」とあります。
明け方、木村老医もやってきて打ち合わせ。新宮まで連れてゆくわけにもゆかず、手術の準備を整え「腹壁を開いて胎児を取り出して見ると能く発育した男児で胎盤はもう腐爛に傾いてゐた。跡は腹壁を縫合して術を終つたのは午前九時であつた。」まさに不眠不休のまま、後事を木村医師に託して険峻な大雲取を那智山方面に向かいます。初めての大雲取越えです。「前方は渺茫(びょうぼう)無限の太平洋その雄大には言葉を呑んで驚いたまま自分免許の俳人終に一句も出ぬ。」状態。大海原の広がりは、疲労困憊の体躯には絶好の癒しになったことでしょう。川関の患者はあまり心配いらぬ病状で、その日のうちに新宮に帰還しました。

「翌年わたしは上京したので順天堂医事研究会席上これを報告し会報にも掲載された。四五年後婦人科雑誌に昔佐倉の順天堂で子宮外妊娠に開腹術を施した事があつたとかいふが、明治になつてこの術を行うたのはこれがはじめてであると書いてある、と友人宮本一郎氏から聞いた事がある。尤も自分のこの手術は破れて胎児の手が出てゐるのを見て已むを得ずした施術で一向手がらにはならぬ。その行き方が普通でなかつたのと、お前が生れる直ぐ前の出来事で印象が深かつたのが近ごろ方哉の誕生のことや何かから思ひ出されて来たので記憶にあるままを話したわけである。」とあるのは、終わり近く。

明治26年6月「順天堂医事研究会報告」に掲載されている「腹腔妊娠治験」が、それに当たります。
ちなみに木村元雄医師とは、戦時下、「横浜事件」という不当な言論弾圧事件で逮捕された雑誌編集者木村亨(とおる)の祖父に当たる人です。木村亨は戦後も、冤罪事件の犠牲者として、国の責任を追及して再審請求などで戦い続けるのです。

館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(10)” に対して1件のコメントがあります。

  1. まるき より:

    小口、大山のこの婦人はその後回復したのでしょうか。麻酔なんて不十分だったでしょうから、手術はさぞ痛かったでしょう。子供は育ったのでしょうか。
    この木村老医師は小口、上長井の人ですね。父はゲンユウ(ゲンヨウと聞こえた)さんと言っていました。年齢からして、会ったことはないでしょうけれど。一家は田辺かどこかの他所に出てしまわれたと聞きましたが、横浜事件の木村氏がその孫とは知りませんでした。大学生の時、教授から横浜事件の人も新宮だよね、と訊かれましたが、私は事件そのものを知りませんでした。元は上長井の人だったのですね。驚きました。同じ木村ですが、近い親類ではないようです。

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