和歌山県の民話・伝説③お万が淵
今から800年ほど前、日高のずっと奥の竜神の里に、平維盛という人が住んでいました。平清盛の孫にあたるお人で、源平合戦では平家方の総大将をつとめたことのある偉い武将でした。
清盛のころは、「平氏にあらずんば人にあらず」と、あれほど勢いを誇った平氏でしたが、源氏に都を追われて屋島で死に物狂いで闘っていました。そんな時に、何故平氏の武将である維盛がこのような山奥に居たのでしょうか。
もともと維盛という人は気がやさしく、戦などには向かぬ人でした。屋島の合戦はそれは激しい戦で毎日、何千人という敵味方が死んで行く。それを見て維盛は、つくづく戦というものが嫌になってしまったそうです。
それに、都に残してきた北の方や子どもたちがどうなっているかも気がかりでした。とうとうある日、屋島の陣を抜けだして、都へ行こうとしました。ごくわずかな家来を連れて、紀州加太浦に船で渡り、さて都へ入ろうとしたのですが、都への道は源氏の目が光っており、とても行けるような状態ではありません。そこで、お坊さんになりを変えて高野山から入ろうとしましたが、これもできませんでした。
仕方なく、熊野へ下り、那智の海岸で鎧と太刀を捨て山成島の大木に、「三位の中将維盛、年二十七歳、寿永三年三月二十八日、那智の沖に入水する」と書きつけ、自殺したように見せかけて、こっそりこの竜神の里に来たということです。
そのうち、維盛はこの里で、お万という美しい娘と知り合い、小森谷にある古い家を借りて住むようになりました。粗末な家でしたが、久しぶりで草鞋を脱いで寛ぐことができました。今、御屋敷跡といわれるところがその家の跡ということです。
戦が嫌で逃げ出してきた維盛でしたが、こんな山奥でひっそり暮らしてみたらやっぱり平家一門のことが心配で仕方がありません。そのうち、「屋島についで、壇ノ浦の合戦でもまた平家が負けたらしい、これで平家もおしまいや」という噂が風のまにまに伝わってきました。
それである日、維盛は、このあたりで一番高い山に登って護摩を焚き、「平家がもう一度立ち直れるのならこの煙を天に向かってあげ、立ち直れないのならこの煙を地に下して、我が一族の運命を知らせてくだされ」と心の中で祈って占いをしたところ、煙は地を這って下へ下へと下ってしまったといいます。
維盛はこれを見て、「ああ、平家の運もこれまでか」とため息をつき、肩を落として、重い足をひきずって山を下りました。そして、お万と別れてこの里を出て行く決心をしたそうです。この護摩を焚いた山は、今、護摩壇山と呼ばれる和歌山県で一番高い山です。
維盛の家来の中に、衛門、嘉門という人がおり、この二人は、「殿は平家の御大将だから、おふれをまわして、もう一度再興を謀ってはどうでしょうか。まだまだ味方もいるはずですから」といいましたが、維盛は首を横に振って、「天は、もはや平家に味方して暮れないようだ。これでは戦っても勝ち目はない」と聞き入れなかったそうです。
この二人は平家再興の望みがなくなったのを悲しんで滝に身を投げて亡くなったそうです。その滝は、左右二つの流れに分かれていて、左の方を「衛門の滝」、右の方を「嘉門の滝」と呼んでいます。
寂しげに村を出て行く維盛の後ろ姿を見送ったお万は、小森谷の滝の前で長いことかかって綺麗に化粧すると、残った白粉と紅を川に流しました。すると、お白粉が流れ込んだ滝壺は、みるみる真っ白になるし、紅の流れ込んだ滝は、みるみる真っ赤になったそうです。今でもその色は残っていて、「白つぼの滝」「赤つぼの滝」と呼ばれているそうです。
そして、お万は淵に身を投げて亡くなりました。維盛との別れがよほど辛かったでしょう。その淵は、今、「お万が淵」と呼ばれています。維盛はそれからどこへ行ったのでしょうか。大和の十津川へ行ったとか、伊勢へ行ったとか言われていますが、そのへんのところはわかりません。