新宮ゆかりの文学者たち~②永田衡吉生誕の地

bunka-rekishi-120x90永田衡吉生誕地(千穂3丁目7-10付近、現裁判所)【地図】

永田平衡(1893-1990)は大正期から昭和期にかけて活躍した長編史劇の劇作家であるとともに、柳田国男に師事し日本の民俗学(特に民俗芸能)にも大きな足跡を残した人物。新宮市初代市長角源泉は父である。代表作は戯曲集「厩戸皇子」など。

永田衡吉は、勇八郎・はつねを両親として明治26年(1893年)11月20日、新宮町で生まれました。現在の裁判所のあたりです。明治27年(1894年)、養子の勇八郎が永田家を去り、明治29年(1896年)、はつねは角源泉(初代新宮市長)と再婚しますが、衡吉は永田姓のまま育ちます。

明治40年(1907年)、新宮中学に入学しますが、一学年上に佐藤春夫がいました。中学2年のとき、札幌に住んでいた角源泉のもとに引き取られ、札幌中学に転校。その後、早稲田大学を卒業後、東京帝国大学美術史選科に入学します。大正7年(1918年)には大杉栄・大石七文・奥栄一らと「民衆の芸術」を創刊しますが、発禁の処分を受けます、

大正9年(1920年)、東京帝国大学を卒業、警視庁警部(脚本検閲官)に就職、大正11年(1922年)文部省社会教育調査委員(芸能)となります。大正12年(1923年)、「中央公論」に処女劇作「厩度王子」を発表、ついで「平維盛」「信州義民録」を掲載し、戯曲脚本家として認められてゆきます。

昭和2年(1927年)、柳田国男らとともに「民俗芸術の会」を結成し、民俗芸能への関心が深くなっていき、、昭和3年(1928年)、小寺融吉らと雑誌「民俗芸能」を創刊します。その後、劇作からは遠ざかっていきますが、演劇界とは国立劇場建設運動などに参画することで、のちのちまで関わっていきます。

戦後は神奈川県文化財専門委員となり、同県立博物館研究調査委員として博物館設立に参与します。「日本の人形芝居」で早稲田大学より博士号を授与されています。平成2年(1990年)2月27日、死去。享年96歳でした。死後、弟子たちの手によって「永田衡吉文庫」が設けられています。

(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」)

西  敏

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