城を学ぶ⑦~新宮・水野氏

子供の頃よく遊んでいたこのお城の殿様は誰だったのかをあまり考えたことがなかった。400年ほど前、この城下町に住んでいた我々の祖先はその殿様の統治のもとで生を営んでいたことは間違いがない。名前だけは聞いたことがある「水野家」について少し学んでみよう。

初代新宮領主となった水野重仲は、徳川家康の母方のいとこにあたる。幼いころから家康に仕え、家康十男の頼宜の後見となった。元和5年(1619)頼宜が紀州55万5千石の藩主として和歌山に入国するのに従って、重仲も付家老として新宮に入り、同じく付家老として田辺領主となった安藤直次とともに、紀州徳川家を補佐した。

安藤・水野家の知行所は、田辺領(3万8千石)と新宮領(3万5千石)とよばれた。両家は、幕府から見れば陪臣(幕府将軍の家来(藩主)の家来)で、大名の列に並ぶことはなかったが、尾張・水戸両家の付家老と同様、待遇は大名に準じ、将軍に拝謁することができた。水野氏は、江戸定府(江戸定住)のため、市ヶ谷浄瑠璃坂などに上屋敷、牛込原町に中屋敷、市ヶ谷原町に下屋敷を持ち、八丁堀には蔵屋敷もあった。

重仲から十代にわたり熊野地方の林産物を中心とした経済基盤をもとに領内を支配した。なかでも九代忠央は、政治・学問・文化にわたり、その手腕を大いに発揮した。

九代城主・水野忠央(1814-65)
忠央は紀州藩の権力を握り、幕府の大老・井伊直弼とともに紀州藩主の徳川慶福(家茂)を14代将軍に就任させるなど幕府の中枢で活躍した。

一方、学問や芸術にもすぐれ、江戸の水野邸にあった丹鶴書院の蔵書の中から選び抜かれた国史・国文学・有識故実(朝廷や公家の古くからの儀式・作法・服装などの定めや習慣)など、貴重な内容を集めた『丹鶴叢書』を編集・刊行したことはよく知られている。

(出典:新宮市観光協会・新宮市商工観光課)

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