幸徳秋水~「大逆事件」と新宮
幸徳秋水
1908年(明治41年)、社会主義の思想家幸徳秋水が高知の中村(現四万十市)から上京の途中、新宮に大石誠之助を訪ねてきて、しばらく滞在します。その間、秋水はアメリカで学んできた、ゼネストなどについて話しています。
ある日は、熊野川で舟を浮かべて海老掻きなどにも興じました。しかし、それが2年後、「天皇暗殺」を謀議した「大逆事件」の一つの要因として、秋水や大石誠之助は処刑されることになるのです。
1910年(明治43年)、の6月のある日、当時の新宮町は異様な雰囲気に包まれました。東京から来た役人、警察官などが、一斉に家宅捜索を開始し、地元で慕われていた大石誠之助をはじめ、高木顕妙、峯尾節堂、成石平四郎と勘三郎の兄弟、崎久保誓一たちを東京に連行していったのです。
同時に高知県の中村や岡山、熊本などでも次々と逮捕者が出て、家宅捜索や取り調べを受けた者を入れると全国で数百名にものぼりました。そのうちで起訴された者は、26名。その罪名は「大逆罪」といい、天皇やその親族に危害を加えるだけでなく、危害を加えようとしただけでも死刑というものでした。
そして裁判は、12月、いきなり大審院(今の最高裁判所)で殆ど秘密のうちに行われ、早くも翌年の1月には先に述べたような判決が下されました。これに対しては、国内だけでなく欧米各国からも批判の声が出そうになりましたが、政府は、彼らに対しわずか6日後という異例のスピードで死刑を執行しています。そして親族や友人の悲しみのなかで、表だって葬儀を行うことも、墓石を建てることも許されなかったのです。
それでも、与謝野鉄幹や佐藤春夫などの詩人は彼らの死を悲しみ、暗に政府を批判する詩を発表しています。