江戸千家の茶人~川上不白

bunka-rekishi-120x90川上不白顕彰碑(新宮城跡内、東屋付近)【地図】

川上不白(1719~1807、江戸千家流祖)は、江戸中期を代表する茶人、京都の表千家で修業して後、江戸に出て活躍、大勢の門下生をもちました。池田町の生まれで、晩年、本廣寺に先祖の供養塔を建立しました。

新宮池田の生まれ

享保4年(1719年)、川上不白は新宮水野家家臣川上五郎作の次男として新宮城下池田(現在の新宮市池田町)に生まれました。享19年(1734年)、京都の表千家七世の天然如心斎宗左に入門します。元文5年(1740年)、4月1日師如心斎より宗雪の号を授けられ、延享元年(1744年)和歌山に出向いた如心斎に同行した際に、茶道の基本精神である「常」の一事を悟ったといわれています。

寛延2年(1749年)2月21日、真台子(茶道具を載せておく棚を台子といい、その飾りようや釜の作法)を伝授され、翌年には一子相伝(奥義をひとりだけに伝えて他にもらさぬこと)の「長盆之伝」(長盆に香を置いて出す作法)も伝授されました。同年10月7日、如心斎の命を受け、茶を広めるために江戸に赴きました。

当時、江戸には千家の正統はまったくなく、諸派が競い合っていたようですが、不白が精力的に活動した結果、田沼意次や大名の島津氏、毛利氏などが次々と入門、表千家が江戸を席捲しました。不白が新宮水野家の茶道に就いたのは、江戸へ行ったころのようです。安永2年(1773年)、嗣子宗引に宗雪の号を譲り、江戸水野家の下屋敷の隠宅に移ります。

江戸千家の創始者

不白は、江戸千家という独自の茶道を創始し、茶道の歴史の1ページを飾りました。この茶道の独自性の一端を、浜畑栄造著「熊野よいとこ」(1980年)の一文から次に紹介します。

ーーー茶道は形式よりも精神を重んぜねばならないのに、どうかするとその精神を忘れて形式化するのは一般の風潮でした。湯治も、茶道は広まると同時に形式化してしまって、真の茶道というものを忘れがちでした。また茶の湯は元来禅家から発達したものですから、茶道を極めるにはどうしても禅に拠って寂を体得しなければなりません。そして文芸方面からサビを解しようとするなら、俳諧が最もよいので、不白はこの禅と俳諧との修業によって、独自の茶道を打ち立てたのでした。不白は、難しいことは言わず、こく自然のまま、「平常心」ということを主張しました。

不白の精神を表すエピソードがあります。

ーーーあるとき、師匠の如心斎は不白を招いた席上、床の「喝石厳」の軸をわざと裏返しにかけておきました。入ってきた不白は、この軸を排して後、表にしなおして座につきました。これが喝石の秘伝で、何事も自然に、常の心を失わないのが茶の湯であることを教えたのです。

また次のようなエピソードも伝えられています。

ーーーあるとき、深川の材木商の弟子の宅を訪ねたところ、店の者から求職に来た男と間違われ、一日中待たされてしまいました。しかし何事もなく平然と待っていたので、これがかえって江戸っ子の気にかない、不白の茶の湯は一世を風靡したのです。当時、不白は、なりふり構わなかったので職人と勘違いされたのです。

不白の号は、禅の師匠大龍宗丈から賜ったもので、孤峰不白、即ち群峰皆雪を頂いて白いのに、不白一人、孤峰雪を頂かず、元の姿のままの個性豊かなるを愛でて賜った号でした。この雅号は初め、淡州に就き、中ごろは陸琳に学び、老いては江戸中期を代表する大島りょう太と親交を結びました。不白の号は俳諧で使い、後世では川上不白でとおるようになりました。この分野でも名吟が多く、一家をなしました。そのいくつかを「不白翁句集」より紹介します。

雪いまだ 遠山白し 夕がすみ
古郷の 春やむかしを 夕桜 すずしさや 心を洗ふ 走り水
浪うって よせ来る勢子や 花薄
凩や みえすく奥に 浄明寺

不白の俳句はその人柄を現して、平明で余情があり、茶道の精神である「常」の心を表現しています。文化4年(1807年)齢88歳で逝去しました。

本広寺(新宮市馬町)に先祖供養塔を建立

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寛政9年(1797年)、不白が79歳のとき、先祖代々諸霊の菩提のために造営した供養塔があります。それは、法華経を一字ずつ書写した6万9384個の 石を大きな壷に入れて地下に埋没し、蓋がわりに3段の基礎石を置き、その上に埋納碑を建てています。名づけて「書写妙 法蓮華印塔」(新宮市の指定文化 財)といいます。本広寺の入り口正面左側にありますので、門をくぐったらすぐに見えます。

正面 奉書写妙法蓮華経
左側面 干時寛政九丁巳二月廿一日
當山六世恵妙院日仁代
川上姓 峯不白
裏側 自得宗雪日暁
川上五郎作貫貌
吉田五兵衛秀方
右側面 主師親並
為先祖代々諸霊魂菩薩建立

この碑を建立したときのことを、「不白翁句集」に残しています。

父母及びおほぢ、とをつおやの菩提を弔いませんと、熊野新宮の本廣寺・東都雑司ヶ谷鬼子母神に一石一字法華経を書写して奉納す。

法界の もれぬ光や 蓮の露

(出典:熊野・新宮発「ふるさとの文化を彩った人たち」

西  敏

 

江戸千家の茶人~川上不白” に対して1件のコメントがあります。

  1. こぶしん より:

    川上不白の名は知っていましたが・・・・・。
    先年高校の同窓会に山口県岩国市より恩師の「藤重豊」先生が参加され、
    新宮市内を案内していたところ
    川上不白の碑を見つけられびっくりされました。

    先生は現在毛利三家の一つ吉川家の資料館館長をされています。
    先生のお話によると、江戸期の多くの大大名が不白の門下生であり毛利の殿様もそうだったと。

    地元に住む私もその話を伺いそれほどまでと、驚きました。

    川上不白流の家元は今でも時々新宮に来てお茶をたてているそうです。

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