歌人や俳人たちの来訪
歌人や俳人たちの来訪
歌人や俳人たちも熊野の魅力にひきつけられて訪れ、作品を残しています。1912年(明治45年)3月には歌人の釈迢空(折口信夫)が、学生たちを連れて伊勢志摩から紀伊半島を踏破、遭難の危機にも遭っています。その時の歌集が「うみやまのあひだ」で、奥熊野の歌23首も含まれています。
季語にとらわれない新傾向俳句の先駆者河東碧梧桐が1911年(明治44年)3月に訪れたほか、1930年(昭和5年)6月にも訪れています。前者は中辺路から、後者は勝浦港からの新宮入りでした。後者の旅では、朝日新聞に「紀州路」が連載されました。歌人で住友の重役であった川田順が、1923年(大正12年)8月に新宮短歌会の招きで来訪しています。
アララギ派の歌人斎藤茂吉と土屋文明らが、地元の歌人杉浦勝の案内で大雲取、小雲取を越えたのは、1925年(大正14年)8月、その折の歌のいくつかが、今、大雲取越えの熊野古道に碑として建てられています。茂吉の「遍路」(昭和3年(1928年))、文明の「往還集」(昭和5年(1930年))はその結実です。文明はその後もたびたび熊野を訪れて数多くの作品を残し、1942年(昭和17年)には、「万葉集」の歌枕の地(古来、和歌などによく詠まれた景勝の地)を訪ねる旅で、「佐野の渡り」の調査もしています。
1930年(昭和5年)7月、詩人の西條八十が来訪、「鯨おどり」や「なぎなた踊り」を観賞し、「民謡の旅」の中で紹介しています。野口雨情も、再三新宮を訪れており、1936年(昭和11年)5月に訪れたときは、11番まである「新宮歌謡」を作っています。一番は、「見せてやりたや神倉山のお燈まつりの男意気」で、いま、神倉神社の境内にその歌碑が建てられています。二番は、「海は荒海寄せては返す波も王子ケ浜にうつ」です。その翌々年の3月に訪れたときには、熊野地方のいくつかの民謡を作詞しています。
わが国の民俗学を創始したといわれる柳田国男は、1937年(昭和12年)2月に、来訪しており、海岸部の民俗調査(漁村の組織や習慣、習俗などを調べる)を行っています。
(出典:熊野・新宮「ふるさとの文化を彩った人たち」)
八咫烏
またまた驚き、歌人、杉浦勝(祐三の父)は義理の伯父です。土屋文明と交流があったのは知っていますが、大正15年というのが、少し不思議です。雲取を案内できたというのですから、若くても、15、6歳と考えます。1924年生まれの私の父の、五歳年上の姉の夫なのです。そんなに歳が離れた夫婦だったか?
雨情の作った「新宮歌謡」
この時期紀伊半島を放浪していた雨情は、煙草銭(たばこせん)にも事欠いていたという。
雨情はふらりと新宮の役所にやってきて雨情と名乗ったが、汚い身なりで
役所の人達も雨情の名前も知らず、
新宮の文化人杉本義夫氏に連絡が入った。
杉本氏は雨情をもてなし、そのお礼にと書いたのが、
十章からなる「新宮歌謡」である。
杉本義夫氏は、佐藤春夫・村井正誠・西村伊作・棟方志功他
日本を代表する芸術家、政治家、歌舞伎役者等
多岐にわたる人物と交流のあった人物として知られている。
しかし、このことを知る人たちも新宮では少なくなっている。
寂しい限りである。