滞在して文化に貢献した人たち③~広岡九一と中畑艸人

bunka-rekishi-120x90広岡九一(1898-1988)が新宮高等女学校の教諭として赴任するのは1925年(大正14年)3月のことで、1928年(昭和3年)3月新宮を去りますが、「熊野音楽界の恩人」といわれるように、「新宮楽友会」や「新宮管弦団」の結成に努力しました。今日における新宮での合唱、ブラスバンドなどの活動の基礎はこのときに築かれたといえます。

広岡はその後上京し、淑生(よしお)と名乗り、吹奏楽の教え方や吹奏楽団の指導と経営などに大きな実績を残しました。「フルート教室」や「吹奏楽講座」なども出版、「吹奏楽の使徒」と讃えられました。

また、同じく新宮高等女学校に新任教諭として勤めた中畑艸人(1912-99)は、和歌山県の海草郡の生まれで、1934年(昭和9年)末から38年(昭和13年)末まで美術と国語を教えたおいうことですが、女学校では「要注意先生」であったと回想しています。(「わが青春」)

軍事色が日に日に強くなってゆくなか、たった二人だけの「チョンガ(独身)先生」、「女教師と笑い合って話をするな、石川啄木の歌を教えるとは文部省令違反、映画の話や小説を読めとは薦めるな、敬礼をしない生徒を呼び止めて訓戒をせよ」などと、ことあるごとに上司から注意を受けたということです。しかし、「熊野三山教材文」を文部省が募集したとき、応募して入選を果たしています。町内で有名画家の展覧会を開いたりもしています。

その後上京して洋画家硲伊之助に師事し、一水会展で活躍、また戦後は一貫して競走馬をテーマにした画家としても活躍します。那智山青岸渡寺に三十塔が完成したとき、壁画として神馬の絵が奉納されています。

当時の中学校や高等女学校では、全国的に遠くから赴任してくる人も多くいて、それぞれの専門分野で新宮の地に種を蒔いていったといえるのです。

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