畑中武夫の碑

bunka-rekishi-120x90畑中武夫の碑(新宮高校正面玄関前)【地図】
畑中武夫(1914-1963)は田辺に生まれ、3歳の時新宮市畑中家(上本町)の養子となります。新宮中学~東京帝大を経て日本の天文学のリーダーとなりましたが、若くして亡くなっています。代表作に[宇宙と星]があり、今でも読み継がれています。新宮高校の碑には「われら地球人」と記されています。

世界の天文学に大きな足跡

県立新宮高等学校(戦前は新宮中学校)からは、文学、芸術、科学など多くの分野ですぐれた人材が輩出しています。なかでも天文学者の畑中武夫の名は、死後40年以上を経た今も、世界の天文学界でよく知られ、月のクレーターや小惑星にも「ハタナカ」の名が付けられているのです。

武夫は1963年(昭和38年)、惜しくも49歳の若さで亡くなりましたが、今活躍中の天文学者の中にも、「まだ生きていたら日本の天文学は大きく変わっていたに違いない」と述べる人が多くいます。

「天文学」をみんなのものに

1914年(大正3年)、武夫は現在の田辺市で生まれたのち、三歳のときに新宮の呉服店畑中家の養子となり、1931年(昭和6年)に新宮中学校(現在の県立新宮高校)を卒業しました。東京の第一高等学校から東京帝国大学(現在の東京大学)で天文学を学び、その後も東大に講師として残り、東京天文台の技手を務めました。

当時は太平洋戦争が激しくなる一方で、東京の町は連日空襲を受けるようになりましたが、武夫は仲間とともに大切な研究の設備などを長野県に疎開させ、食糧を確保するために芋畑を耕しながら、東京との間を往復して、学生への講義を続けたのです。

戦後ようやく平和の戻った日本では、貧しい中にも新しく研究のスタートが切られました。アメリカから新しい「電波天文学」が紹介されると、武夫はいち早く研究テーマをこれに変え、アメリカでの研究を終えると、39歳で東京大学の教授となりました。

さらに、1957年(昭和32年)には、東京天文台天体電波部長に就任、若くして日本の天文学界をリードする存在となり、研究と講義に忙しい毎日になりました。それでも武夫は。天文学をただ難しい計算をしたり発見を求めたりする学問ではなく、一般の人々や子どもたちにもわかりやすく親しみやすいものにするため、テレビ・ラジオにも積極的に出演しました。

たとえば、当時は「スプートニクショック」という出来事がありました。1957年(昭和32年)、当時のソビエト連邦は世界で初めて人工衛星スプートニク号の打ち上げに成功し、4年後にはついにガガーリン少佐を乗せて、人工衛星の地球一周に成功したのです。

ソビエト連邦と対立していたアメリカは非常に驚き、両国は宇宙開発と軍事力の競争に全力を挙げるようになっていきました。そんななかで、武夫は1957年(昭和32年)、「ロケット・人工衛星国際会議」に日本代表として出席し、さらにガガーリン氏とグレン氏(アメリカの宇宙飛行士)が来日したときには、日本を代表して国民の前でテレビで対談をしたのです。このようにして、戦前には一部の学者しか関心をもたなかった天文学は、科学者でけでなく、一般の家庭でも一緒に考えることのできるものになっていきました。

科学の平和利用への思い

hatanaka-takeo-120x150しかし同時に武夫は、科学技術の発展が世界の軍備の競争と結びついていくことを残念がって、次のように書いています。

「人は地上から天を見て、宇宙のすべての姿を見ていると思っている。あるいは見られるものと思っている。けれども、われわれの見ている宇宙の姿というのは、地上にまで届くような光の範囲だけで見た姿に限られていることを、忘れてはならない。

今度の戦争の直後から発達した電波天文学は、光に比べて十万倍、百万倍もの長い波長で宇宙を見ることを教えた。そして実際に電波で見た宇宙の姿が、光で見たそれを延長したのでは決してわからないものであることを、如実に示している。そして最近のアメリカの観測ロケットは、予期されなかったいくつかの天体を発見している。

私どもはジレンマにおちいっている。私どもはこのような新しい宇宙像を知りたい。例えば大気圏内での直接測定量はのどから手が出るほどほしい。けれども、もしこれらの測定のためのロケット発射がICBM(大陸間のミサイル)のテストであるなら、それは全くごめんである。

ではこのジレンマをどう解決すればいいのであろうか。根本は、人類が決してこれから戦争をしないことである。何とかして人類が戦争をしないでもすむようにならないものかと切実にねがう。今、こういうまともな発言ができるのは、核兵器も持たず、ICBMも持たない、そしてまた将来も持つ気のない国だけだと思う、私はただ、宇宙旅行などだけを考えて、月ロケットや宇宙ロケットを手放しで賛美できない苦しみを述べるだけである。」

地球人として生きる

1962年(昭和37年)、久しぶりに故郷新宮を訪れたときの講演では、最後に「考え方によっては人間の一人一人も皆、夜空に輝く美しい崇高な星の一片なのです」と結びました。武夫の死後、1979年(昭和54年)には出身の県立新宮高校に畑中武夫の記念碑が建立されましたが、正門を入った左側にあるその大きな石碑にはさらに丸い石が埋め込まれ、「われら地球人」の文字が刻まれています。

その言葉は、私たちが科学の発展に有頂天にならず、それが人類の幸せにつながるのかと常に疑問をもち、その成果や疑問を次の若い世代に伝えていくことが大切であることを表しているのではないでしょうか。

「何が原因かわからないが、僕は小学校時代から夜空のあのきれいな星を見るのが好きになって、よくただ一人熊野川の川原に出て星を眺めたものです」

このような気持ちを忘れなかった畑中武夫は、少年向けに多くのわかりやすい本を著しました。
・「宇宙と星」……星の進化の話
・「宇宙空間への道」……宇宙空間の利用について

これらの著書はいまだに多くの人に愛読され、30年以上も出版され続けています。宇宙の研究が急速に進歩している今でも十分通用する内容であり、多くの天文学者にとって、宇宙の研究を志すきっかけとなった本なのです。みなさんも一度手にとってみてはいかがでしょうか。

西  敏

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