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	<title>その時、熊野は動いた | 熊野エクスプレス</title>
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	<title>その時、熊野は動いた | 熊野エクスプレス</title>
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		<title>その時、熊野は動いた⑨～幻ではなかった新宮県</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 30 Jan 2021 22:10:10 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[幻ではなかった新宮県]]></category>
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					<description><![CDATA[慶長4年(明治元年＝1868）1月、王政復古により明治政府が成立したとき、紀州藩付家老で「新宮藩」の第十代藩主だった水野大炊頭忠幹（みずのおおいのかみただもと）が藩屏（はんぺい、藩の重鎮）に列せられ、紀州本藩からはじめて [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>慶長4年(明治元年＝1868）1月、王政復古により明治政府が成立したとき、紀州藩付家老で「新宮藩」の第十代藩主だった水野大炊頭忠幹（みずのおおいのかみただもと）が藩屏（はんぺい、藩の重鎮）に列せられ、紀州本藩からはじめて独立した藩が誕生しました。</p>
<p>付家老の地位に不満を抱いていた尾張藩の安藤家、水戸藩の竹越家ら五家もこのとき同時に諸侯に列することになりました。ただし、この年の9月には年号も「明治」と改元して徳川幕府は崩壊してしまいます。思うに、付家老たちの昇格は、御三家から領地を取り上げるために新政府が企んだ懐柔策のひとつだったのでしょう。</p>
<p>そして、明治２年（1869）６月、諸藩がいっせいに版籍奉還したため水野忠幹もこれにならったわけです。つまり、本藩から独立した「新宮藩」はわずか１年半しか続かなかったことになります。</p>
<p>さらに明治４年（1871）７月14日、廃藩置県が実施されて日本は三府七十二県となり、府知事、県令が置かれました。和歌山、田辺、新宮の三藩はそれぞれ県となったわけで、ここにめでたく「新宮県」が誕生します。</p>
<p>ところが、その年の11月22日、せっかく日の目を見た新宮県と田辺県は「和歌山県」に吸収合併され、新宮県は廃止の憂き目みます。和歌山県に合併されるまでわずか半年のはかない「新宮県」だったということです。</p>
<p>その頃、熊野川の対岸から東側（現在の三重県南牟婁郡以東）や北牟婁郡、あるいは旧伊勢国の多気郡、渡会郡、一志郡、飯野郡、飯高郡の村々は「渡会県」に編入されていて、これは「渡会県」という名称でした。廃藩置県の際、伊勢国の安芸郡（あげぐん）、三重郡、川曲郡の村々は「安濃津県」に、大和国吉野郡の三カ所は「五条県」にそれぞれ編入されています。</p>
<p>新宮の丹鶴城本丸、二の丸などが取り崩されたのは明治８年（1875）のことですが、明治11年（1878）7月22日、郡区市町村編成法の設定実施で、在来の在勤所、区役所を廃止して新たに郡役所、戸長役場が置かれることになり、仲ノ町の旧小学伝習所に東牟婁郡役所が設けられました。</p>
<p>初代郡長には県の勧業御用係だった吉田貢氏が任命されましたが、この吉田氏は慶応2年（1866）の長州戦争の際、水野藩の第二番小隊伍長として、芸州方面に出陣、戦場を駆け回った旧藩士でした。</p>
<p>郡の管轄地域は新宮の二十五町村のほかに郡部百六十五村六浦で、これを四十七戸長役場に分割し、郡役所は明治12年3月から業務を開始しますが、県令が任命した初代新宮戸長も旧藩士だった鈴木孫八郎氏です。この鈴木氏は旧藩で柔術師範をつとめ、仲ノ町で柔術道場を開いていた人です。</p>
<p>旧新宮藩には丹鶴流剣法の使い手である強矢武之助という人もいて、その父の良助も九代藩主水野忠央の剣術師範をつとめていました。武之助は気合いをかけて相手の体を三間ぐらい飛ばしたといわれ、背中を叩かれてばったり倒れて死んだ者もいたとかで、鈴木戸長はよくその想い出話をしたそうです。長身で身が軽く、実力は紀州藩随一といわれた武之助の籠手技はあまりに強力なために封じ手とされ、「強矢の籠手」として藩内に鳴り響いたといわれています。</p>
<p>明治15年（1882）11月、政府は町村自治の方針をとり、戸長も知事の任命ではなく公選によることとなりました。「新宮町」の戸長には元収税属の津田長四郎氏が就任しました。新宮町成立当時の戸数は2302戸、人口は9648人だったそうです。</p>
<p>（余談ですが、九代藩主水野忠央の孫・水野忠宣中尉は明治35年の八甲田山死の雪中行軍で戦死しました。陸軍士官学校卒で、赴任したのが弘前師団だったために、この悲劇に遭遇しました。享年26歳。新宮の水野家代々のお墓群の、入ってすぐ右手にこの忠宣中尉の墓もあります。新田次郎さんが書いた「八甲田山」という小説でも、映画でも水野中尉らしい人物は登場していません。新田さんの小説のネタになった生存者の手記はどうあれ、水野忠宣中尉の遭難死が歴史上の事実なのは動かしようがありません）</p>
<p>(2003年2月25日発行「熊野エクスプレス7号より転載」</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>その時、熊野は動いた⑧～熊野詣 2</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 29 Jan 2021 22:48:03 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[その時熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[歴史のなかの熊野]]></category>
		<category><![CDATA[熊野詣]]></category>
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					<description><![CDATA[熊野詣（２） そもそも「蟻の熊野詣で」といわれた熊野三山信仰は、平安時代の浄土信仰のひろまりによって盛んになったものだ。本州最南端にあって京都からみて真南に位置する熊野は、現世における極楽浄土とみたてられた。 仏教化して [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080;"><strong>熊野詣（２）</strong></span></p>
<p>そもそも「蟻の熊野詣で」といわれた熊野三山信仰は、平安時代の浄土信仰のひろまりによって盛んになったものだ。本州最南端にあって京都からみて真南に位置する熊野は、現世における極楽浄土とみたてられた。</p>
<p>仏教化して熊野三所権現などと称するようになった熊野三山でも「現世安穏後世極楽」のキャッチコピーでしきりに宣伝し、熊野曼陀羅（くまのまんだら）や熊野午王護符（くまのごおうごふ）を携えた先達や御師（おし＝山伏）や熊野比丘尼（くまのびくに）を諸国に派遣して、参拝を呼びかけた。</p>
<p>熊野曼陀羅というのは、本宮、新宮、那智の三山の神仏や社殿を描いた垂迹画（すいじゃくが）で、御師や熊野比丘尼たちはこの曼陀羅をおもしろおかしく絵解きして民衆に三山信仰をひろめた。</p>
<p>一般に熊野の地全体が観音の補陀落浄土と考えられたが、本宮は阿弥陀仏のいる西方浄土、新宮は薬師如来のいる東方瑠璃浄土、那智は観世音菩薩の住む補陀落浄土にみたてられていた。</p>
<p>京都から熊野へと詣でるコースは、南鳥羽から淀川下りの川船に乗って大坂の八軒屋に上陸し、現在の阪和線のルートを南下して紀州北部に着き、海南の藤白王子から湯浅ー小松原ー切目ー田辺と抜け、さらに山間部をとおって湯ノ峰温泉－本宮に出る中辺路が一般的だった。</p>
<p>中辺路の稲葉根王子から上流の富田川は、昔は「岩田川」と呼ばれていて、熊野詣での水垢離（みずごり）場だった。</p>
<p>熊野詣でをする上皇や隋従の公卿たちは、ずぶ濡れになって川を渡り、女院は二反の白布をつないだ結び目につかまり、大勢の女官たちにつき添われて川を渡った。</p>
<p>奥熊野の入口にある吼比狼（こびろ）峠は、昼なお暗い難所で、樹上から蛭がよく落ちてきたため、別名を「蛭降峠」ともいった。</p>
<p>京都から本宮まで、およそ七三里（約三〇〇キロ）である。</p>
<p>本宮からは川船で下流の新宮に出て速玉神社を拝し、王子ヶ浜から御手洗をまわり、三輪崎、佐野をへて那智に上った。</p>
<p>那智の浜にある浜ノ宮大神社は浜ノ宮王子跡で、渚ノ宮とも呼ばれた。那智山に参拝する前、ここで潮垢離を行なって身を清めた。</p>
<p>帰路は那智から大雲取、小雲取を越すか、きた道をふたたび帰るかだった。三山めぐりが二八里（一一二キロ）。京都からの往復では一七四里（約七〇〇キロ）の大旅行である。</p>
<p>延喜七年（九〇七）の宇多上皇から弘安四年（一二八一）の亀山天皇まで数えて一〇八人の天皇・上皇の御幸をみた熊野詣では白河、鳥羽、後白河、後鳥羽上皇のころに特に盛んになった。</p>
<p>平家の勃興は熊野三山の加護によるものと信じられていたにしても、後白河は三四度、後鳥羽上皇は二九度という熊野詣の</p>
<p>回数はすさまじい。</p>
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		<title>その時、熊野は動いた⑦～熊野詣 1</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Thu, 28 Jan 2021 22:54:39 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[歴史のなかの熊野]]></category>
		<category><![CDATA[熊野詣]]></category>
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					<description><![CDATA[熊野詣（１） いつだったかぼんやりとテレビをみていたら、マイホーム訪問かなにかの番組に富司純子さんが出ていて、 「うちの子供たちがほたえて、もう大変…」と、しゃべっていたので、やはりふとしたはずみにお国訛りが出るんだな、 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080;"><strong>熊野詣（１）</strong></span><br />
いつだったかぼんやりとテレビをみていたら、マイホーム訪問かなにかの番組に富司純子さんが出ていて、</p>
<p>「うちの子供たちがほたえて、もう大変…」と、しゃべっていたので、やはりふとしたはずみにお国訛りが出るんだな、とほほえましく思った。</p>
<p>スクリーンのなかで小太刀を閃かせて博徒を斬りまくったあの緋牡お竜さんは、子供のころ疎開かなにかで御坊で暮らしていたらしく、そのころ使っていた紀州弁が無意識で口に出た、ということだ。騒える（ほたえる）という言葉は、いまでも新宮の若い人たも日常的に使っているのだろうか。</p>
<p>人一倍ほたえた私たちの少年時代には、「そばえる」とか「そばえんな」という言葉もよく使った。<br />
この「そばえ」については私も日照雨（そばえ）が動詞化したものとばかり思っていたが、「岩波古語辞典』の「そばえ」を引いてみると、解釈の「一」として『「そばへ」［戯へ］イソバヒ（戯）の転。ふざける。じゃれる』とあり、「二」として『日照り雨が降る』とあった。</p>
<p>また私たちの日常語のひとつだった「てごたらあかんで」の「てんご」は『「テンガウの訛」として「いたずら。冗談」となっている。「てんがう」は『［転合］［転業］とも書き、ふざけること、いたずら、戯れ』をさす古い言葉だが、私たちは新宮で大和言葉ともいえる古語を日常的に使っていたわけだ。</p>
<p>やはり、日常語のひとつだった女性をさす「ねしょ」も、王朝物の映画やドラマに出てくる「にょしょう」が訛ったものだろう。</p>
<p>以上、上流熊野弁の権威である城かず坊先生のご参考までに思いつくまま書いてみたが、それだけ熊野の地は昔からみやこの言葉との接触が深かったということだ。熊野三山参拝のためにはるばる京からやってくる女院や公卿、それに随従の人びとと熊野の地下人とがさまざまなかたちでコンタクトを持ったに違いない。</p>
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		<title>その時、熊野は動いた⑥～新宮十郎行家 3</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 24 Jan 2021 21:27:20 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[新宮十郎行家]]></category>
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					<description><![CDATA[新宮十郎行家 (3) 丹鶴姫を姉にもつ新宮産まれの十郎行家は、田辺にいる甥の湛増とは仲がよくなかった。 別当家につながるとはいえ腹違いの行家が以仁王の令旨を携えて諸国をかけずりまわって決起をうながしていることは、平家寄り [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>新宮十郎行家 (3)</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">丹鶴姫を姉にもつ新宮産まれの十郎行家は、田辺にいる甥の湛増とは仲がよくなかった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">別当家につながるとはいえ腹違いの行家が以仁王の令旨を携えて諸国をかけずりまわって決起をうながしていることは、平家寄りだった堪増には苦々しいものと映った。堪増はこの件を平家に密告し、その結果、以仁王は囚われの身となる。皇子はその名も「源以仁」と変えられ、遠流されることに決まる。のちに以仁王は、逃亡先の三井寺からさらに興福寺はと向かう途中、平家の追手につかまり、宇治平等院で自害した。行家に令旨を託した源頼政も、子の仲綱、兼綱、仲家とともに討ち死にした。仲家は頼政のところに養子に入っていた木曾義仲の兄である。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">翌年、行家は三河・尾張の武士をかき集め、墨股川で重衡・維盛の平家の軍勢と戦ったが、合戦下手の行家はたちまち惨敗を喫してしまった。その後、義仲が京を攻め、平家を都落ちさせたが、行家はその義仲の後見役を買ってでて官位を思いどおりにし、領国を勝手により好みしはじめる。それを聞いた頼朝は、急いで追討の院宣をいただきたいと申し入れた。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">『平家物語』には、征夷将軍の官宣旨を届けた中原康定に向かって頼朝がいった言葉として、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「義仲、行家、己が高名がを（顔）に恩恵に預かり、剰（あまつ）へ両人共に国を嫌ひ申し候ふなる条、返す返す奇怪に候ふ」</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">これは平家追討の賞としてはじめ義仲には左馬頭・越後国が与えられ、行家は備後守になされたが、両人が嫌ったため義仲には伊予国が与えられ、行家は備前守になされたことを指している。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">一方、行家と義仲の間もおかしくなってくる。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">後白河法皇に自分の悪口を吹き込んでいるといううわさを聞いた義仲は、昼夜兼行で備中から都に引き返し、あわてた行家は丹波路を下って播磨へと逃げまわった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">播磨の室山には平家の二万余の軍勢が1000艘もの船で陣を張っていた。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そこへ行家の兵500騎が攻撃を仕掛けた。だが、待ち構えていた平家の大軍に囲まれ、行家は危なく命を落とすところだった。からくも播磨の高砂から船に乗って和泉に逃げ、そこから河内を越えて金剛山麓の長野城にこもった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">結局は義仲も討たれてしまい、平家が滅亡したあとの行家は今度は反頼朝の中心となって義経と結び、頼朝追討の宣旨をえて挙兵した。黒幕はいうまでもなく後白河法皇だった。激怒した頼朝は、行家追討を当の義経に命じるつもりだったが、義経は病いと称して使者の梶原景季に会わなかった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">文治元年（1185）、義経が法皇から検非違使尉（現在の警察庁長官にあたる）に任官されたことを知った頼朝は、土佐坊昌俊を暗殺者に仕立てて義経を狙ったが、これは失敗に終わった。その年の10月29日、鎌倉を出て黄瀬川に逗留していた頼朝の耳に、義経が九州諸国の惣地頭に、行家が四国の惣地頭に任命されたというニュースが入ってきた。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">頼朝の大軍が京へとめざした一一月三日、義経と行家の一行は摂津の大物浦から九州へ船で脱出しようとしたが、突風により船が転覆してしまった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ようやく浜にあがった行家は、義経とともに大物浦から吉野に抜け大峰～多武～十津川への逃亡の旅をつづけた。行家と別れた義経は、その後、延暦寺や興福寺、鞍馬寺などに隠れ住み、最後は北陸の加賀方面から奥州平泉の藤原秀衝の元に身を寄せた。行家は翌年の五月、和泉国の日向権守清実の隠れ家に潜伏しているところを、追手の平時定、常陸坊昌明らによって突き止められてしまった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">八木の小屋に隠れていた行家は、最後の最後になって果敢に闘いついに力つきて捕えられた。叡山の僧でもあった常陸坊昌明とのすさまじい格闘のもようは『平家物語』の「第六末蔵人行家被搦事」に活写されている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">兜に腹巻、両手に籠手をはめ、三尺五寸の太刀を構えた常陸坊昌命（明）は、直垂小袴で右手に三尺一寸の太刀、左手に鍔の欠けた黄金造りの小太刀を持った行家と対峙する。馬で小屋に乗りつけた昌明は、行家をみて馬からおり、徒歩打物のまさに一騎打ちを展開した。昌明が太刀を諸手打ちに打てば、行家は右手に持った太刀で受けて、左手の小太刀で突いた。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">最後には「太刀と太刀とが切組」み、組み討ちとなるが、すさまじい格闘により、双方の刃こぼれが四二箇所という激しい打物戦となった。子の光家も捕えられたが、行家は和泉の赤井河原で斬られ、首は五月二五日、鎌倉に送られた。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">行方をくらましていた行家が処刑されたニュースを聞いた公卿たちは「天下の運報いまだ尽きず、悦ぶべし、悦ぶべし」（『玉葉』文治二年五月一五日条）と喜んだ。かつてその公卿たちは、源義仲を決起させ、ついで源氏の棟梁である源頼朝も立たせた行家のことを論功行賞で「頼朝第一、義仲第二、行家第三」（『玉葉』）と高く評価したのだった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">姉の丹鶴姫とともに強力な熊野水軍を源氏の味方に誘いこみ、平家を壇ノ浦で壊滅させるのに力があった行家は、いわば、武家政権を確立した陰の功労者でもあったのに、最後はこのとおり非業の死をとげる運命にあった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">郷土史家の小野芳彦さんによれば、行家の塚は愛知県五井にあるという。</span></p>
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		<title>その時、熊野は動いた⑤～新宮十郎行家 2</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 23 Jan 2021 21:52:12 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[新宮十郎行家]]></category>
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					<description><![CDATA[新宮十郎行家 (2) 新宮で生まれ育った行家が天下の争乱のまっただなかに乗り出すきっかけとなったのは、同じ源氏の源頼政とのコネだった。行家のほうから売りこんでいったのか、それとも思い上がった平家に反旗をひるがえした頼政が [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>新宮十郎行家 (2)</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">新宮で生まれ育った行家が天下の争乱のまっただなかに乗り出すきっかけとなったのは、同じ源氏の源頼政とのコネだった。行家のほうから売りこんでいったのか、それとも思い上がった平家に反旗をひるがえした頼政が、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「天照大神のお告げじゃ」</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">と、いって熊野から行家を呼んで八条院蔵人に推したのかはさだかではないが、頼政が目をつけたのは行家の弁舌の達者さだったのは間違いない。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">八条院というのは、鳥羽天皇と美福門院得子の皇女だった章子内親王のことで、以仁王を猶子にしていた。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">源平争乱の黒幕となる後白河院は、この章子の異母兄にあたる。「平家を倒せ！」という以仁王の令旨（命令書）を伝達する使者が蔵人職だ。任官した直後に旧名の「義盛」から「行家」に改名したのは、熊野先達の山伏姿で諸国をまわるさい、源氏風の「義」がついているよりも新宮にいる熊野別当第一九代の行範とのかかわりを強調する「行」がついているほうが通りがよかったからだろう。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><b>■源平合戦の中の行家■</b></span><br />
<span style="font-size: 12pt;">以仁王の令旨を携えた行家は、治承四年（1180）四月二八日に都を出て、近江、美濃、尾張と触れまわり、五月一日、鎌倉の北条館に到着した。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">令旨を受け取った頼朝は、水干の装束をつけ、男山八幡宮に向かって遥拝してから目を通したという。令旨は、清盛の圧制のもと、いかに国が疲弊し、王威が衰退しているかを訴えるとともに、仏法破滅を憂えて、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「天道の助けを仰ぎ、帝王・三宝・神明の冥感があれば、なんぞ四岳合力志なからんや」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">と、高らかに宣言し、</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「源家の人、藤氏の人、三道諸国の武士」に決起をうながしたものだった。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">頼朝に令旨を渡す役をおえた行家は、そのあと常陸にいる兄の信太三郎義憲に会いに行き、さらに甥の木曾義仲に会うため信濃へと向かった。歴史にＩＦはないというが、もし行家が令旨を携えて諸国を飛び回らなかったら、源平のパワーバランスはかなり違ったものとなっていただろう。新宮に生まれ育った行家こそ、源頼朝が鎌倉に武家政権を打ち立てるきっかけをつくった影のキーパーソンだったのだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">（この項つづく）</span></p>
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		<title>その時、熊野は動いた④～新宮十郎行家 1</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 22 Jan 2021 21:35:07 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[新宮十郎行家]]></category>
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					<description><![CDATA[新宮十郎行家 (1) 多弁で、こらえ性がなく、つい腹のうちを人にみせてしまうばかりか、思い立つと軽々と行動する軽率さが取り柄の男・・・。いかにも典型的な熊野人の一タイプだな、と微苦笑させられる人物として司馬遼太郎さんの「 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>新宮十郎行家 (1)</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">多弁で、こらえ性がなく、つい腹のうちを人にみせてしまうばかりか、思い立つと軽々と行動する軽率さが取り柄の男・・・。いかにも典型的な熊野人の一タイプだな、と微苦笑させられる人物として司馬遼太郎さんの「義経」に登場するのが、新宮十郎行家だ。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">行家は源氏の棟梁・源義朝の末弟で、しかも熊野別当ゆかりの人物でもあるが、この小説の中では那智の滝で荒行をして修験の法をこころえ、経文も読めるだけの宗教的素養をそなえ、「武将としては百戦百敗してきたが、しかし策士としては百策ことごとく的中した」口達者なアジテーターとして描かれている。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><b>■歴史上、最初に活躍した熊野人■</b></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">熊野地方は古来から神武東征を導いた高倉下命（たかくらじのみこと）、あるいは修験道のカリスマである役小角（えんのおづぬ）のような正体のさだかではないユニークな人物を出してきたが、それはそれとして、日本史上、天下の情勢を一変させるほど縦横に活躍した最初の熊野人といえば、この行家をおいてない。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">もしも新宮出身の行家に、木曾義仲や源義経がもっていた軍事力と采配のたくみさをうまく活用するだけの雅量があれば、あるいは鎌倉幕府をひらいた源頼朝をしのぐ政治家となっていたかもしれず、それこそ新宮幕府をひらいていたかもしれない。行家には全国に散らばった熊野先達の情報ネットワークを使ってのすぐれた情報収集能力と、コーディネーターとしての才能があり、それは源平抗争期の時代では群を抜くものがあった。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>■後ろ盾がない、行家■</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ただ、行家には姉の丹鶴姫に従う熊野水軍の一部はついていても頼朝に従った坂東武者のような強力な手勢はなく、また義経をバックアップした奥州の藤原秀衡のような財力、あるいは弁慶のような忠実な部下には恵まれなかった。いわば、徒手空拳で権謀術数のかたまりのような公卿と荒っぽい東国武士たちの間を渡り歩かなければならなかったのだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">司馬さんの「義経」には、その行家の焦りをあらわすエピソードがつづられている。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">京を制圧した義仲とともに蓮華王院にいた後白河法皇に謁したときのことだ。馬を降りた行家は、一歩でも義仲に先んじようと身をもむようにして門内を進んだ。宮廷の庭ではゆるゆると歩かなければいけない決まりがあるのに、それを無視して義仲よりも序列が上なのを示そうとして焦って足を速める行家の姿に、見守る公卿たちは笑いをかみ殺した。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">御簾のなかからこれを見ていた法皇は、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「あの猿どものあさましさをみよ」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">と、この分なら義仲より才子面の行家のほうが御しやすいとみた、というくだりだ。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">同族をせめぎあわせてその力を減衰させることにたけ、その権謀術数のあくどさで「日本国第一の大天狗」と頼朝に評された後白河法皇のほうが、行家より一枚も二枚も役者が上だったということだろう。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">源氏の棟梁・源為義の十男として生まれた十郎行家は、最初は源氏の御曹司らしく「義」の一字をいただいて「義盛」と名乗っていた。父の為義は後三年の役（1083～87）で陸奥の豪族清原氏を破った八幡太郎義家の孫だ。為義と熱田大宮司藤原季範の娘の間に生まれた長男が義朝である。義朝の子の頼朝・義経兄弟は行家には甥にあたる。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">生母は姉の丹鶴姫と同じく第15代熊野別当長快の娘で「熊野の女房」とか「立田の女房」と呼ばれていた女性。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">（佐藤和夫さんの「海と水軍の歴史（上）」では、母は「新宮田津原の神官鈴木重忠の女」となっている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">八咫烏</span></p>
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		<title>その時、熊野は動いた③～丹鶴姫の怨念 3</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Sun, 03 Jan 2021 15:50:58 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[丹鶴姫の怨念]]></category>
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					<description><![CDATA[田辺の別当屋敷跡という一画に、天正18年（1590）、弁慶松と呼ばれる周囲五抱えの大松があったことが古記録に記されている。三代目の松は昭和50年、松喰虫にやられて枯れ、現在、四代目が植えられているが、この松にも物部色の濃 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="font-size: 12pt;">田辺の別当屋敷跡という一画に、天正18年（1590）、弁慶松と呼ばれる周囲五抱えの大松があったことが古記録に記されている。三代目の松は昭和50年、松喰虫にやられて枯れ、現在、四代目が植えられているが、この松にも物部色の濃い土地柄と熊野別当の家印との深いかかわりがあるようだ。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ところで熊野別当の率いる熊野水軍は、平治の乱（1159）には平家方について戦った。田辺の湛増も頼政が兵をあげたときは、父湛快の意をついではじめは平氏に肩入れし、源氏に傾こうとする新宮の鳥居法眼行範・行快父子と対立した。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">行範は湛増の母である丹鶴姫が再婚した相手であり、二人の間にできた行快は湛増にとって異母弟にあたる。丹鶴姫は自分の産んだ二人の息子がいがみあうのを見て心を痛めたに違いない。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「平家物語」巻四の「源氏揃」によれば、湛増は兵千人ほどを率いて新宮へと攻め入った。だが湛増は、新宮・那智の連合軍に破れ、その後、湛増は木曽義仲の挙兵、頼朝の義仲討伐にも、また義経が一の谷で平家を破ったときもじっと中立を守り、源平いずれにもつかなかった。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong> ■田辺の闘鶏神社の由来■　</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">戦局が大詰めに近づいてきてもなお去就に迷っていた湛増は、田辺の今熊野権現（闘鶏神社）の社前で、白い鶏七羽、赤い鶏七羽を蹴りあわせて神意をうかがった。いうまでもなく、白は源氏、赤は平家だ。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">「白き鶏勝ちたるは、源氏にお味方せん」</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">鶏を蹴り合わせて白いが勝つのは、前もって決められていたことだったかどうか。いずれにしても、神意をうかがうというセレモニーによって腹を決めた湛増は、熊野水軍の兵船二百余艘に屈強の熊野衆二千余人を引き連れて、屋島の合戦に源氏勢に合流し、その後、壇ノ浦の戦いにも加わった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">白い旗を船のへさきにひるがえした熊野水軍の兵船を見た平家の軍兵は、どっと西の海へと逃げた。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">この参戦で源氏との関係を深めた湛増はしばらくして21代別当の地位についた。その背後に頼朝・義経兄弟の叔母でもある母・丹鶴姫のとりなしがあったのは確かだろう。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>■源氏の衰退■　</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">しかし、髪を切って鳥居禅尼と名乗り、その時代の女性にしては長命だったと伝えられる丹鶴姫には、人の世のはかなさを嘆く日々が続く。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">父の為義は、保元の乱で敗れてわが子・義朝に斬られ、その義朝も平家に殺され、丹鶴姫の弟の新宮十郎行家も首を斬られた。甥の義経もその兄である頼朝に誅せられるなど、同族同士の果てしない殺し合いが続いたからだ。鎌倉幕府をつくった頼朝が死んだあと、父方の源氏の血統は断たれ、世は北条の天下となった。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">その後、実家の熊野別当家は急速に凋落していき、仏門に入った丹鶴姫は城山に丹鶴山東仙寺を建て、数奇な生涯をおえた。東仙寺で読経しながら、丹鶴姫はいったいなんのために源氏に肩入れしたのか、という虚しさを噛みしめていたに違いない。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">（この項終わり）</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">八咫烏</span></p>
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			</item>
		<item>
		<title>その時、熊野は動いた②～丹鶴姫の怨念 2</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Sat, 02 Jan 2021 15:31:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[その時熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[丹鶴姫]]></category>
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					<description><![CDATA[丹鶴姫の怨念２ 私が住んでいる府中市には、大国魂神社の参道でもあるけやき並木があって、けやきの中には天然記念物に指定された樹齢数百年という大木も混じっている。 そのけやき並木のかたわらに、大国魂神社を守るかのように建って [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>丹鶴姫の怨念２</strong></span><br />
<span style="font-size: 12pt;">私が住んでいる府中市には、大国魂神社の参道でもあるけやき並木があって、けやきの中には天然記念物に指定された樹齢数百年という大木も混じっている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">そのけやき並木のかたわらに、大国魂神社を守るかのように建っているのが、前回ちらっと触れた八幡太郎義家の銅像だ。丹鶴姫(たんかくひめ）の四代前に当たる源氏の総帥が、大国魂神社にけやき並木を寄進して奥州征伐（1062年の前九年の役）の戦勝を祈ったということで、銅像になった義家はなかなか凛々しい顔をしている。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">大国魂神社はオオクニヌシノミコトを主神とする古い神社で、境内にさまざまな木が植えられていて目を楽しませてくれるのに、なぜか松の木は一本もない。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">伝承によれば、この地に帰ってきたオオクニヌシノミコトが、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「わしは待つのがきらいじゃ」</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">と、のたもうて、松の木を徹底的に嫌ったという。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">出雲大社に祀られている中央系の神オオクニヌシノミコトが、新たに部族神として府中の地に帰ってきたときに、ほんとにそんな駄洒落を言ったのかどうかは不問に処すとして、この地はもとはといえば物部系の根拠地だったらしい。</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">熊野の神は物部系であり、松は熊野では午王護符の印材として使われている木で、熊野別当は家印としても松材を用いていた。松材は火力が強く、タタラ製鉄には欠かすことができない木だ。そういった関係から物部色が濃い土地には松の伝承が残っている場合が多いのだという。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>■大国魂神社の「からす団扇」■</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">大国魂神社では毎年7月20日にすもも祭が行われ、この日、一年に一度だけ黒い鴉が羽をひろげて翔んでいるようすを描いた「からす団扇」が参拝者に頒けられる。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">鴉といえば熊野だが、古い物部系の熊野の神を嫌ったオオクニヌシノミコトが「松はきらいじゃ」と境内から松の木を排除したところで、熊野との縁はなかなか切ることができず、いまだに「からす団扇」に名残があるということかもしれない。</span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">郷土史家（＊新中OB。太地出身）の澤村経夫さんの「熊野の謎と伝説」でも、</span><br />
<span style="font-size: 12pt;">「大国魂神社の主神は、大国主命である。出雲の国造の統治権を継承する火鑽（ヒキ）りの神事は、大国主命を祀っている出雲大社ではおこなわれず、不思議なことに島根県八束郡八雲町にある熊野神社でおこなわれた。出雲族の最高神は、大国主命ではなく、熊野大神であった。大国魂神社の鴉団扇と、熊野三山の鴉のいずれも熊野大神に源を発することに気づかれるだろう」と、熊野との関連について触れている。</span></p>
<p><span style="color: #000080; font-size: 12pt;"><strong>■新宮と「鶴」の深い関係■</strong></span></p>
<p><span style="font-size: 12pt;">ところで丹鶴姫のことだが、速玉神社にあった修験の梅本庵に伝わる古文献「熊野年代記」では、丹鶴姫ではなく「田鶴姫」と呼んでいる。</span></p>
<p>前回にも引用させてもらった下村巳六さんの「熊野の伝承と謎」によれば、「崇徳大治五庚戌（1130年）鶴原尼丹鶴山に東仙寺建立」とあり丹鶴姫は田鶴姫のほかに「鶴原尼」と呼ばれていたことがわかる。</p>
<p>大治五年というと、白河法皇が崩じて鳥羽上皇が院政をしいた翌年で、為義の郎党が人を辱めて勅勘をこうむった年だ。白河法皇、鳥羽上皇が熊野に御幸したのは、その五年前の天治二年（1125年）になる。</p>
<p>鶴の古語は「多豆（たづ）」で「たづはら」（田鶴原）といえば、新宮市内に町名となって残っているし、幕末、新宮藩主・水野忠央の妹で、第十二代将軍家慶（いえよし）の側室となったお琴の方が産んだ男児の名は、忠央の命名なのか、その名も「田鶴若」といった。忠央自身も「鶴峰」という号をもっていたが、とにかく新宮と「鶴」との関係は深いのだ。<br />
「熊野の伝承と謎」には、丹鶴姫の墓所から出土した松鶴鏡の写真が載っているが、そこにはたしかにくびを伸ばした鶴が写っている。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong> ■源平のパワーゲーム。丹鶴姫の活躍■</strong></span></p>
<p>鶴で連想するのは、瀬戸内海のジャンヌ・ダルクといわれる大三島の鶴姫だ。</p>
<p>瀬戸内海の大三島にある大山祇神社の大祝家・兵庫助安用（やすもち）の娘だった鶴姫は、来島海峡を守る河野水軍に身をおき、天文十年（1541年）六月、大内水軍を相手に早舟を操り、みずから大薙刀をふりかざして奮戦した。ときに鶴姫、十六歳。そのさい着用したという紺糸威しの胴丸は、大三島の神社国宝館にあって国の重文に指定されている。胸のあたりがふくらみ、腰がきゅっとくびれた女鎧で、同じ水軍の娘でもわが丹鶴姫には鶴姫のような伝説が伝わっていないのが惜しい。</p>
<p>そのかわり、夫の湛快の死後、十九代別当行載（鳥居法眼）のもとに再嫁した丹鶴姫は、二十二代別当行快や行忠、長詮を産み、鳥居禅尼と称して、源平のパワーゲームに揺れる新宮にあって強力な熊野水軍を源氏方につけるのに大きな役割を果たした。</p>
<p>丹鶴姫とともに新宮の地で育った実弟の十郎行家は、源三位頼政が平家打倒の兵をあげた際、以仁王（もちひとおう）の令旨を諸国に伝え平家を滅ぼすきっかけをつくった。</p>
<p>のち行家は頼朝と不仲になって討たれてしまうが、丹鶴姫は弟の留守中、田辺に本拠を構える子の湛増に源氏に味方するようにくどいたと思われる。</p>
<p>湛増は丹鶴姫が先夫の湛快との間にもうけた子で、口熊野と呼ばれた田辺に湛快が熊野三山の拠点として熊野三所権現を勧請し、まだ若かった湛増を権別当として置いた。<br />
（この項続く）</p>
<p>八咫烏</p>
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			</item>
		<item>
		<title>その時、熊野は動いた①～丹鶴姫の怨念 1</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Fri, 01 Jan 2021 15:09:26 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[その時熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[丹鶴姫]]></category>
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					<description><![CDATA[丹鶴姫の怨念 熊野川べりの城山（新宮）には、いまでも頑丈な石組みが残っていて、かつて白亜三層の天守と多聞櫓を持っていたという丹鶴城の偉容をしのばせる。 いまは城にあがる道がすっかり整備されて登りやすくなったが、私が小学生 [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p><span style="color: #000080;"><strong>丹鶴姫の怨念</strong></span><br />
熊野川べりの城山（新宮）には、いまでも頑丈な石組みが残っていて、かつて白亜三層の天守と多聞櫓を持っていたという丹鶴城の偉容をしのばせる。</p>
<p>いまは城にあがる道がすっかり整備されて登りやすくなったが、私が小学生の頃（千穂小学校）は道らしい道もなく、崩れかけた石垣の上の平地は雑草に覆われていた。<br />
沖見城ともいわれたこの丹鶴城には、日暮れになると美しいもののけ姫が出るという話が伝えられていて、私などは度胸試しのためにわざと夕方、陽が沈むころに登ったものだった。</p>
<p>作家佐藤春夫さんも「わんぱく時代」のなかで、丹鶴城のもののけ姫に触れているが、城の天守台跡あたりの祠から、緋のはかまに十二単衣を着こなした姫が出てきて檜扇で招くという話がまことしやかに伝えられていた。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong>■丹鶴姫と黒兎■　</strong></span><br />
あでやかな衣装をまとった丹鶴姫には、日が暮れてから外に出てくる黒い兎がついていて、その黒兎に道を横切られる子はほどなく死んで丹鶴姫のそばに行かねばならぬ、という言い伝えもあった。</p>
<p>黒兎は、もののけ姫の忠実な使わしめなのだ。</p>
<p>蘭沢（いのぞ）に棲む大蛇に魅入られた美少女オイノが森の奥に誘い込まれて底なしの蛇の穴に飲み込まれたという伝説は、子供のころよく聞かされたが、丹鶴姫の場合は子供がつい誘いに乗りそうな黒兎というところがいい。</p>
<p>私が古老から聞かされたのは、黒兎を従えた丹鶴姫の祠は本丸跡の東南側、薄暗い小路をへだてた小さな丘にあり、その丘の茂みのなかに古びた五輪塔が残っていたという話だった。</p>
<p>しかし、天守台跡や二ノ丸の窪地にところどころにえぐられたような穴があったが、あちこち歩き回っても私には祠や五輪塔は見つけることができなかった。</p>
<p>速玉神社の「神宝館」には、熊野詣でにやってきた中世の女人たちが寄進した金銀箔を張った檜扇があるが、十二単衣を着た丹鶴姫も、あんな檜扇で人をさし招いたのだろうか。それにしても、黒兎を使って祠に子供を呼び込むというのは尋常ではない。</p>
<p>茂みのなかでひっそりと朽ち果てつつある古い祠、それに使わしめの黒兎には、鳥羽上皇が熊野詣をしたころ、殿上人たちの間ではやった「穴黒々の黒主かな」という舞い囃し言葉を連想させるものがある。</p>
<p>これは、乱舞の席で囃されてもなかなか芸をしない者に対してしびれを切らした一座の者が、「けしからんぞ」と、囃した囃子歌だというが、公卿や女官たちと接触があった丹鶴姫も、あるいはこの囃子歌をうたっていたかもしれない。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong>■源義家と「立田の女房」との出会い■</strong></span><br />
八幡太郎義家といえば、武家の棟梁であり、源氏の総帥でもあったが、その孫にあたる源氏の嫡流が源為義だ。</p>
<p>「吾妻鏡」によれば、この為義が院の熊野御幸に検非違使として随行したさい、第一五代熊野別当長快の娘で「熊野の女房」とか「立田の女房」とか呼ばれていた娘と結ばれた。彼女は生地の新宮で一女一男を産んだ。女児が丹鶴姫で、為義の十男になる男児が十郎義盛、後の行家だ。</p>
<p>しかし、この「立田の女房」は、熊野別当長快の娘ではなく、熊野三山の巫女だったのではないか、という説をたてているのが郷土史家の下村巳六さんで、その著書「熊野の伝承と謎」のなかで、「私は疑わしいと思う。源為義の子、丹鶴姫や行家などを産んだために、別当の養女となったのかもしれない。その素性は巫女だったのではなかろうか、とも思う。平清盛と厳島神社の巫女と関係が深く、それがあの有名な平家納経の素因となったといわれているが、そうしたことは当時ありえたことだったからである」と書いている。</p>
<p><span style="color: #000080;"><strong>■「立田」は「たたら」？</strong></span><br />
「立田」は「たたら」と音が似通うし、「丹」は古代、朱の原料となる丹ではなく「丹青」として砂鉄を指したのだそうだが、丹鶴姫の丹はその血筋が採鉄にかかわるもの、すなわち「たたら筋」ではないか、というのが下村さんの推論だ。</p>
<p>そういえば神武天皇の皇后である媛踏鞴五十鈴姫命（ヒメタタライスズヒメノミコト）も「たたら筋」という説がある。「古事記」では比売多多良伊須気余里比売（ヒメタタライスケヨリヒメ）となっているが、どっちにしてもタタラヒメなのに変わりはない。</p>
<p>「立田の女房」が為義の夜の伽の相手となって懐妊し、別当の養女となったかどうかは別として、成人したその娘丹鶴姫は第一八代熊野別当湛快の妻となって男児を産んだ。それが後に第二一代別当となる湛増だ。</p>
<p>天皇、あるいは上皇という旗印のもとに源平いずれかの武家勢力を味方につけて権力の座につこうとする公卿たちの画策、そのおどろおどろしいパワーゲームに踊らされたのが、湛快・湛増父子であり、丹鶴姫だった。<br />
（この項つづく）</p>
<p>&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8211;</p>
<p>この記事は、新宮出身の作家新宮正春さんの「歴史のなかの熊野」というエッセイの中から一部を紹介しているものです。掲載については、もともと森本剛史君がかつて発行していたメールマガジン「熊野エクスプレス」に掲載しようということで新宮正春さんご本人から了解を得たものです。当時の、新宮正春さんのコメントが残っています。</p>
<p>「小生、ただいま書き下ろし中の小説の締め切りがとっくに過ぎているのに、ついつい新宮の歴史雑学について書くことに夢中になっててしまい、ワープロ打ちはもっぱらそればかりという状況です。編集者からの電話におびえる逃亡生活スリルを楽しみつつ、原稿料にならない原稿を書くという事が実に愉快です。</p>
<p>中世の丹鶴姫あたりからはじめて、堀内氏善の時代、その後の幕藩体制の時代と、新宮とその周辺のあれこれをかき集めて時系列で整理し直してみると、ゆうに単行本一冊の分量になってしまいました。むろん、これには徐福のことはいっさい抜きです。</p>
<p>ご要望あらば、どのパートでも喜んで熊野エクスプレス誌上に提供いたします。」</p>
<p>八咫烏</p>
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		<title>新宮正春・熊エプ投稿文 2</title>
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		<dc:creator><![CDATA[Tony]]></dc:creator>
		<pubDate>Tue, 27 Sep 2016 22:38:06 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[その時、熊野は動いた]]></category>
		<category><![CDATA[新宮正春]]></category>
		<category><![CDATA[熊野・新宮の歴史雑学]]></category>
		<category><![CDATA[熊野エクスプレス]]></category>
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					<description><![CDATA[既に紹介済みの新宮正春特集「その時、熊野は動いた」の連載が始まる前に、作家の新宮正春さんが、熊野エクスプレスに送ってくれた暖かいメールです。締切迫る仕事の原稿よりも熊エプへの投稿に夢中になるというのがいかにも郷土愛に溢れ [&#8230;]]]></description>
										<content:encoded><![CDATA[<p>既に紹介済みの新宮正春特集「その時、熊野は動いた」の連載が始まる前に、作家の新宮正春さんが、熊野エクスプレスに送ってくれた暖かいメールです。締切迫る仕事の原稿よりも熊エプへの投稿に夢中になるというのがいかにも郷土愛に溢れる新宮さんらしいと思います。<br />
&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;&#8212;-<br />
新宮正春さん／作家。新宮市出身<br />
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小生、ただいま書き下ろし中の小説の締め切りがとっくに過ぎているのに、ついつい新宮の歴史雑学について書くことに夢中になっててしまい、ワープロ打ちはもっぱらそればかりという状況です。編集者からの電話におびえる逃亡生活スリルを楽しみつつ、原稿料にならない原稿を書くという事が実に愉快です。</p>
<p>中世の丹鶴姫あたりからはじめて、堀内氏善の時代、その後の幕藩体制の時代と、新宮とその周辺のあれこれをかき集めて時系列で整理し直してみると、ゆうに単行本一冊の分量になってしまいました。むろん、これには徐福のことはいっさい抜きです。<br />
ご要望あらば、どのパートでも喜んで熊野エクスプレス誌上に提供いたします。</p>
<p>（ありがとうございます。締め切りがひと段落したら、丹鶴姫あたりからどうでしょうか？　我々、あんまり熊野の中世・近世・近代史を知りません。どうぞよろしく）</p>
<p>（2003年2月25日発行・熊野エクスプレス7号より転載）</p>
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