「懐かしの新宮鐵道」2~まえがき

かつて新宮をはじめ熊野灘沿岸地方から江戸まで海路でわずか3日で到達できた、言わば「海の新幹線」ともいえる物流を謳歌した時代がありました。(参考:私のふるさと~和歌山県新宮市5 物流革命)その後、国内鉄道網の発達で陸路中心の時代となり、相対的に陸の孤島と言われる状態になっていったのでした。

そうした時代の変遷を目の当たりにして来た熊野の先人たちが鐡道に託した思いをこのシリーズでお伝えできればと思います。

まずは、冊子を開いてすぐに出てくる「まえがき」から紹介します。

まえがき

  百年程前の二十世紀初頭、欧米の工業化は世界に広がり、鉄道を例にとってもニューヨークグランドセントラル駅や東京駅などの有名な建造物が次々と誕生しています。そのような時代、日本の片隅でも「新宮鐵道(しんぐうてつどう)」が産声を上げていました。

 日本初の鉄道開通は明治5年、東京の新橋・横浜間であるのは知られたことですが、それから約40年後の明治末、日本の鉄道の主要幹線はほぼ完成していました。しかし紀伊半島では、東は名古屋から伊勢まで、西は大阪・奈良から和歌山までしか開通しておらず、熊野地方への到達はいつになるとも知れない状況でした。

かつて「陸の孤島」などと言われたこの地域ですが、実際には新宮を初め熊野灘沿岸地方からは海路わずか3日で江戸に到達し、その文化と直接つながっておりました。それが国内鉄道網の発達で陸路中心の時代となり、相対的に孤島のような感覚になっていったのだと思われます。そのような状況で地域先人達は、文明開化の波に遅れず、これまでの木材を介した都会とのつながりを強め、経済的にも文化的にもさらに繁栄させていこうと考えていました。

 そして大正2(1913)年3月、新宮・勝浦間に開業した「新宮鐵道」は、地元の有志によって作られ、他の路線とつながらない単独の珍しい鉄道でした。その後昭和9年(1934)年7月に国有化されるまでの21年間、木材や生活物資、地域住民と観光客を乗せて走り続けました。

 紀南地方に文化の息吹を伝え、様々な交通手段の発展を促したこの鉄道の功績については、左近晴久氏の研究「新宮鉄道の形成と展開(新宮市立図書館発行「熊野誌」連載)」があります。しかし写真、図版を中心としたものはあまり見られず、そこでこれまでに蒐集した当時の絵葉書、地図、切符等に地元の方々所蔵の写真と史料を加え、出来るだけ幅広い方々に見て楽しんで頂ける内容を企画しました。

  「新宮鉄道」や「紀勢中線」などの名も知らぬ人がほとんどの現在、あえてタイトルを『懐かしの…』としたのは、今もその記憶を残されている方々に当時を振り返っていただき、又今後の世代に地域先人の努力を紹介したいとの思いからです。

 集めきれなかった史料もあってまだまだ満足な内容とは言えず、この段階での公開には躊躇される面もありました。しかしせっかくの百周年の各行事を終えて、時期は今しかないと考え出版するに到った次第です。

 なお、新宮鉄道に関しての史料等をお持ちの方がおられましたら、情報の提供をお待ちしております。

平成26年(2014年)12月4日

熊野の鉄道100年を祝い未来を考える実行委員会

 (資料提供:熊野の鐵道百年を祝い未来を考える実行委委員会)

小冊子懐かしの新宮鐵道 写真と資料」は新宮市観光協会のHPでも1000円で販売しています。まとめてご覧になりたい方はこちらでお求めください。

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ヤタガラス

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